Tさんが亡くなった。7月1日未明、借上げのアパートから自身で呼んだ救急車で病院へ運ばれ、間もなく息を引き取ったという。

 Tさんは、被災者のための交流スペース「ぶらっと」開設当初からの常連さんで、ほぼ毎日顔を出していた。こちらから被災者のみなさんへ送った開設のお知らせに反応し、「これは俺が行ってもいい場所なのかい?」と電話をくれ、オープニングの2日前から既に通い始めていた。そして、オープニングと同時に発行した情報紙の創刊準備号では、利用者の声として彼のコメントを掲載した。

津波で自宅を失い、長年住み慣れた場所を離れ、慣れない街なかで独り避難生活を続けていた彼にとって、交流スペースと我々スタッフが心の拠り所の一つとなっていたのは間違いない。肺炎で入院した時も「救急車で運ばれたから、身の回りのものが何にもないんだ」と遠慮がちに電話をくれた。酒臭い息で交流スペースに現れ、スタッフから注意されしばらく来ないことはあっても、数日後には何もなかったかのように顔を出した。

 

 亡くなる10日ほど前、夜中に彼から私の携帯に電話が入った。すぐに出られず留守電が入っていたが、うめき声のようなかすかな音が聞こえるだけであった。かけ直したが、出ない。何度かけても出ないので、心配になり彼の自宅へ行ってみた。すると、千鳥足で玄関へ出てきて、「来てくれたんだ。まあ、入っていきな」と私をワンルームの部屋の中へ招き入れた。チューハイの缶が何本か空いていた。30分ほど話をする中で、「小松さんに教えておきたいことがある」と言って、箪笥から小さな箱をおろしてきた。箱の中をしばらく探した後「これこれ」と取り出したのが、彼のコメントを載せた情報紙だった。綺麗にたたんで袋にしまってある。「これ、何だかわかるか?俺の宝物。大事にとってあるんだよ。」

 

それから数日後、私が東京へ行っている間に、いわき事務所から電話が入った。Tさんが電話で「家に来てほしい」と言っているという。私は、どうせまた酔っぱらっているだけだろうと思い、「行かなくていいから、適当に答えておいて」と伝えた。彼が救急車で運ばれたのは、その後間もなくであった。

私は変に安心していた。というか、高をくくっていた。「なんだかんだ言ってTさんは大丈夫だから」と。ただ今まで大丈夫だったからというだけで、何の根拠もない安心だった。

スタッフは皆ショックを受けていた。我々はこのような事態を避けるために、これまでいわきでの活動を続けてきたのではなかったか。振り返ってみれば、彼からのSOSを受けていたにも拘らず、なぜ対応しなかったのか・・・。もっと対処の仕方があったはずでは・・・。

 火葬場で、最後のお別れをした。「Tさん、ごめんね」と一言だけ。親族の方たちにはこの時初めてお会いした。お礼の言葉をいただいたが、後悔の念だけが私の頭の中をぐるぐると渦巻いていた。  

 

被災地では、長引く避難生活と先行きの見えない不安によって、被災者の精神的な苦痛が日々増大している。我々はその苦痛を少しでも和らげるために、真剣な取り組みを迫られているのだ。これ以上、Tさんのような悲しい別れを経験しないためにも。

 

DSC07813.JPGお盆後に訪れたいわき市の薄磯海岸。例年なら海水浴客で賑わっているはずだが、人影はほとんどなかった