独立の喜びが続く1972年雨季、バングラデシュに長期出張。ベンガルの大都カルカッタ発のプロペラ機の高度が下がり、湖の浮島と思った所が旧ダカ・エアポート。うす暗く喧噪・混迷の空港ビル。不鮮明な書類にボロカーボンを挟み記し入国審査へ。いよいよ税関、他国以上に荷物を隅から隅まで見られる。

201607241556000ようやく鉄格子のゲートを出た瞬間、複雑な臭いと香りに加え「旦那!御喜捨を!」の大歓迎。宿泊先に着くも、銃声が遠くに聞こえ、停電は長く多く、天然サウナを楽しむ。あたりは真っ暗、バングラとは晩暗か?早々に弱音が出る。だが、翌日から街中で見掛けた独立歓喜の“ジョイ・バングラー!”の行進に大感動。前にインド他も訪れたが、ダカは何か印象の違う懐かしいところ。

日本にも戦後、スラムはあり、友にも孤児・靴磨きはいた。だがダカの浮浪児・くず拾いはより多く、輪タク(リキシャ)もあり、「鐘の鳴る丘」なるラジオ番組を切なく聴いた幼い頃をふと思う。電話・テレックスは繋がるまで待とうの忍耐鍛錬の日々だった。

1974年に行った日本人会主催の春祭りの様子

1974年に行った日本人会主催の春祭りの様子

73年末からも再度長期出張。今度は花屋の屋台も見られ、潤いを感じた。大使公邸で開かれた日本人会主催の第一回目春祭りに参加したことや日本人学校開校前のお手伝いは光栄だった。83年秋からと91年末からそれぞれ5年強、通算13年近く日本商社の社員としてバングラデシュに駐在。定年退社後、仕事は変わるが何度か訪問し、シャプラニール仲間にも再会した。ここ数年はバングラデシュに帰国出来ず残念だ。

大発展した今のバングラデシュを私が語る資格はないが、回顧談を後少し。官公庁や企業が多く巨大シャプラ(睡蓮)のモニュメントが目立つモティジールビジネス街でもリキシャが我が物顔、ベビータクシー、荷車も道に溢れ、超ポンコツ新旧多様な自動車が走り、さながら交通博物館のようだ。駐在員は緑多いボナニやグルシャンから通勤、昼飯に戻る時もあったが、渋滞が蔓延している今では難しいだろう。事務所近くの寺院のプージャー(ヒンドゥー教のお祭り)で人に挟まれ、汗だくで参拝したのも懐かしい。

昔のモティジール

昔のモティジール

乾季の一時期の肌寒い朝晩の満天星の見事さは形容し難い。季節・地域を問わぬ色彩豊かな花々や果樹、水田・河川…のどかな風景、くわえてまさに水と共に生きる人々の姿は今も眼に焼き付いている。家族などとの船旅でガンジスイルカや美しい鳥とも出会った。サイクロン・洪水は衆知だが、真横に走る稲妻にはびっくり、こぶし大のひょうが降ってきて、逃げ遅れた車の屋根はボコボコになったことも。怖かった。一方、クリスマスツリーの様な蛍の群れとその舞は得も言われぬ華麗さ。

ノアカリ・フェニ河口にて(筆者)

現場好きでGPSもない頃から各地探訪、72年にチッタゴン丘陵部で集団に囲まれたが無事、笑みの重要さを痛感した。へんぴなところも多く、ぬかるみでの立ち往生は数知れぬが、宗教に関係なく村人達が助けてくれ、何も要求せず黙々と去って行った時の爽やかな感動や感謝は忘れられず、上面でない真の思いやりの大切さを肝に銘じた。町でも親切な方が多いが、昔からの筋金入りのタフな客先にやりこめられたのは度々、したたかさは必要。だが相手を立て、誠意で交渉、だめなら笑顔で出直せば良いと学んだ。好敵手は今も仲良しで、会えば「私の家はあなたの家」と家族とも和気あいあい。日本・バングラデシュ国交50周年には、シャンティ(平和)な我が黄金のバングラーに帰省したいと思っている。“豊かな自然と人々”想いは尽きぬも、ドンニャバ(ありがとう)!

<プロフィール> 里見駿介(さとみ・しゅんすけ)
元商社マン(バングラデシュ、インド、フィリピン駐在)。近年まで独立行政法人などのアドバイザー。現在は一般社団法人日本バングラデシュ協会理事。

<シャプラニールとの関わり>
元理事、評議員。多年のダッカ生活中に多くのシャプラニール駐在員他と交際・勉強の機会を得た。

この記事の情報は2016年8月17日時点です。