私たちがヤルサ村を訪問したのは5月12日。再び大きな余震がネパールを襲って、100名を超える死者を出した地震のあった日でした。

村内の最初の集落で配布を終えて、次の集落に向かう途中で大きな余震が発生しました。車を降りると土砂崩れが数か所確認できました。この地域は震源にそれほど近い場所ではありませんでしたが、土砂崩れが発生しており、4月25日の本震の際も土砂崩れで畑を失った方も多かったため、家の倒壊と同様に土砂崩れに巻き込まれる不安に直面しているように感じられました。

4、5時間かけて歩いて米の配布場所に集まった方々は、集落に子供を残してきており、子供の安否を心配して、泣き崩れるお母さん方の姿もありました。また、この余震で外からの救援物資がまたストップしてしまうかもしれない、という不安から、トラックから米を持ち去るといった混乱が一時生じました。しかしながら、集落内の災害救援委員会がネパール語、タマン語(この地域の方々はタマン語を使用)で全世帯に配布する米の準備があり、必ず全員に米を配布することを周知し、調整をはかって混乱は収まりました。

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自分の集落の方向を指す村人。指し示す山のさらに向こう側に集落があるとのこと。

テレビやラジオなどによる外からの正確な情報入手手段が非常に限定的であることに加えて、村内の交通及び村と外を結ぶ交通の便が非常に悪いという状況がこの地域において、緊急救援作業や発災後のパニックの回避を大きく阻害していることを痛感しました。きっとこのような集落はネパール国内に多くあるのだと思います。

この集落は、耕作面積も少なく、畑で栽培されるものはトウモロコシと小麦、ジャガイモが少しという状況で、自給自足では2,3カ月しか農作物が確保できないとのことでした。そのため、家畜を売ったり、ヤクの乳から取れる乳製品の販売、ポーターの仕事で現金を稼いでいるということです。しかし、トレッキングルートからは外れるために、観光客向けのレストランやホテルは見当たりませんでした。

話をきかせてくれた男性は、地震で畑が土砂崩れにあって、土地が削れてしまい、さらにヒョウが降ったため、かろうじて残ったトウモロコシが痛んでしまった、話してくれました。

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村の様子を話す村人(左)と聞き取りをするパートナー団体SWIスタッフ(右)

村の一つの集落ではネパール人が個人的に差し入れした物資を配布しているところに遭遇しました。しかし、物資だけ持ってきて、配布はネパール軍兵士2名に任せたとのことで、差し入れしたご本人にはお目にかかることはできませんでした。

ネパール軍兵士は物資を配布する方法(村内に混乱を招かないようにクーポンを作るなど)を持ち合わせていないため、村人も兵士も混乱し、最終的には兵士がテントを配布している間に、村人が勝手に他の物資を(文字通り)宙にばらまき、それを村人が拾うといった状況にまで発展していました。

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物資配布に関わったネパール軍兵士。「ものを配布するなら、
配布の手順まで準備してから来てほしい・・」と言っていました。

村内の状況は、ほぼすべての家が損壊している状況で、自分の家で引き続き生活ができている住民はほとんどいませんでした。土砂崩れを恐れて、広い空き地に集まり、トタン板や竹で編んだムシロのようなもので仮設住宅を建設し始めていました。

この地域は石と土で家を建設するため、重量があり、崩れた家の下敷きになって亡くなった方が多くいらっしゃいました。私が訪問した際には村内で30名の死亡が確認されており、また崩れた家の中を住民総出で探したけれど3名は見つからず、すでに亡骸なしのお葬式を済ませたとのことでした。

これから中期的なシェルターの建設とともに、再び恒久的な家の建設に住民の方々は取り組まなければなりません。課題は多くあります。標高の高い地域です。冬を越せるような住環境が整えられるのか?石と土の耐震性の弱い家ではなく、地震に少しでも強い家を作るための資金、資材調達、情報収集はできるのか?心のケアの問題もあります。畑を失った方の生活はどうなるのか?外部からの支援がコミュニティにネガティブなインパクトを与えていないだろうか?

多くのことを考えさせられる物資配布となりました。これからから復興のことを考えなければなりません。今回見たことを忘れずに取り組みたいと思います。

カトマンズ事務所長 宮原麻季