5日から昨日まで、クルナに出張していました。クルナにはサイクロン復興支援活動のパートナー団体であるJJSの事務所があります。サイクロンの救援活動に続く復興支援活動は第一弾として教科書配布やニーズアセスメント調査を行った後、5月から次の本格的な活動開始を予定していたのですが、政府のNGO局の承認を得るのにひどく時間がかかり7月からようやく開始できたところです。(この活動については別途あらためて順次ご報告していきます。)

ダッカからバングラデシュ南西部のクルナ方面に行くには、ポッダ河(ガンジス河)を渡らなければなりません。河口に近いバングラデシュではこの大河の川幅は相当なものになっていて、いまだこの河を渡る橋はないため、フェリーで渡ります。

ダッカからポッダ河をフェリーで渡ってクルナ方面へ行くには、二つのコースがあります。ひとつはダッカから西へ向かい、マニックゴンジ県のアリチャ・ガットからフェリーに乗るコース、もうひとつは南に向かい、マワ・ガットから乗るコース。対岸からクルナまでの距離はマワで渡ったほうがずっと短いのですが、マワ・ガットから出るフェリーは小さくてあまり頻繁に出ないので乗れるまでに相当待たされることが多く、フェリーに乗っている時間も1時間半から2時間かかってしんどいので、アリチャから行くことがほとんどです。アリチャ・ガットから対岸のドウロトディア・ガットまではフェリーが動き出せば40分ぐらい。アリチャのフェリーは大きいので、観光バスやトラックも何台も乗ってきます。

フェリー乗り場周辺やフェリーの上には魚や海老、果物、雑誌、スナックなど様々なものを売る人、物乞いする人などがいつもたくさんいます。その中には子どもたちもいます。

この子どもたちの中にいつも自分よりひとまわり小さい少年を抱きかかえながら物乞いして回っている少年がいます。年の頃は10歳から11歳ぐらいでしょうか。瞳の輝きから賢い子どもであることがわかります。抱きかかえている子は障がいがあるようです。以前小銭をあげたら、この少年が抱えている子と一緒に食事のできる店にすっ飛んで行き、自分は後回しにして抱えていた子どもを甲斐がいしく世話しながら食事させているのを見たことがあったので、今回も20タカあげました。同行したダッカ事務所のスタッフが少年の身の上を尋ねたら、彼は抱きかかえた子どもの頭を時々撫でながらこんな話をしました。

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少年の家はポッダ河対岸のラジバリにあり、父親はリキシャ引きとして働き、母親は他人の家で使用人をしている。いつも抱きかかえているのは少年の兄で、病気のために身体が大きくならない。医者に連れて行ったら腎臓がひとつだめになっていて手術が必要だと言われた。兄は以前は話をすることができたのだが、去年ぐらいから話すことができなくなった。医者は手術すればまた話ができるようになると言っている。少年は毎日兄を抱えてフェリーで物乞いをし、1ヶ月に1000タカぐらい稼ぐ。兄が毎月通院して治療を受けるのに1000タカかかるのでこのお金はほとんど兄の治療に消えるが、お金があまったときは兄の手術のために貯金している。少年自身は2年生まで学校に行き、読み書きもできるが、兄のため物乞いの仕事をしなければならないので学校を辞めた。

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何も知らず通り過ぎてしまえば大勢いる物乞いの一人として記憶にも残らないのかもしれませんが、この子の話を聞いて少なからず衝撃を受けました。病気の兄の日々の世話と命そのものが10歳そこそこの少年の肩にかかっているそのあまりの重さ。この国の貧しい子どもたちはどうしてこんなにも重い運命を背負わなければならないのでしょう。

行きにフェリーから降りた車の中でスタッフから少年の話を聞き、また見かけたらもう少し多めにお金をあげようかと思っていたのですが、帰りのフェリーでは出会いませんでした。

帰りは空きペットボトルを集めている少年と話をしました。1リットルの空きボトルひとつ1タカで売れるそうです。まだ水が少し残っているボトルをあげたら、「ありがと。水も僕が飲むね!」と喜んでいました。

何十万、何百万といるバングラデシュの働く子どもたち。毎年6%とか7%の経済成長を続けるバングラデシュでこの子たちの状況はまだまだ本当に酷いです。酷すぎる。

シャプラニールがいま手がけている様々な働く子どもたちへの支援活動も、どうしたらもっと社会全体を変えていくような大きな動きにつなげていけるのだろう、どうしたら限られた地域・限られた数の子どもを対象にした活動で終わることなく、点から線、線から面にしていけるのだろう、と考え続けています。