今にも崩れそうな段ボールと竹の壁。台所をねずみがはい回る。シトシト雨なら大丈夫だけどセメント袋の屋根は頼りない。トイレもゴミ捨て場も兼ねる川沿いを歩くと、一体こんな家がどこまで続くんだろうとため息が出る。
スラムに関わろうと思ったのは、そこが一番居心地の悪い場所だったからだ。それはきっと寒いとか、喧しいとか身体で感じることではない。私にとってスラムとは「入りやすくて出にくい」気持ちになる場所なのだ。
1996年の春から一人でも関われそうなスラムを見つけに街を歩き回った。迷い込んでも村と違って言葉は通じないことはないし、住民は外国人を見慣れている。同じカトマンズに住んでいれば何だかんだと話題は見つかるから気まずい思いをすることもない。ただでさえ狭い家で私にだけ寝台の上の一等席を空けてもらうのは心苦しいけれど、しばらくすると唄い始める人あり、近所からもやじ馬がやって来て部屋中人で一杯だ。プライバシーがない替わりに孤独もない空間を羨ましく思うこともある。だが帰り際「君は居心地のいい家に帰るんだね。そしていつか日本に戻るんだね。わかっているさ」という視線を感じると立ち去り難い気持ちになるのだ。村にだって同じことを考えている人もいるだろうが、訪問者の私が何となく正体をぼかしていても許してくれる寛容さがある。だがカトマンズは小さくても首都。贅沢なホテルやレストランはあるし、援助関係の外国人が多いから輸入食材は何でも手に入る。そういう家の使用人になるスラムの住民も多い。我々の暮らしぶりはすっかり知られているのだ。
民族衣装をまとえば、「へー、こっちの服も着るんだね」と喜んでくれる。しかし一緒にバスに乗っても、手でダル・バート(豆のスープとごはん)を食べても、私はその気になれば他に帰る場所があるという事実に気付かない人たちではない。だったらこちらの生活を変に隠し立てすることなく付き合うしかないと思うのだが、私はどこまで自分の暮らしを見せられるだろうか。スラムに住み込んで一緒に生活をする関わり方だってある。でも期限付きで一緒に暮らして何となく一体感に溺れるよりは、恵まれた自分の暮らしと彼らの暮らしのギャップを毎日バスやテンプー(オート三輪)で往復しながら悩み続けることもまた必要なのではないか。彼らだって毎日イヤというほど貧富の差を思い知らされているはずだ。
我が家から歩いて20分ほどのスラムに行った帰り道、橋を渡ればもうすぐだと思って振り返ると、小学生くらいの女の子が二人ついてくる。クスクス笑いながら「私たちとお話してよ」と言いたげだ。でも私は青くなってしまった。それくらいの年齢なら外国人の家で洗濯や掃除をして働いている子も少なくない。もし私の家まで来たら…次に言うのは「私を雇ってよ」だろうなと思った瞬間、足は用もないのにバザールの方へ向いてしまった。やっぱり正体を明かして付き合う勇気が出せなかった。
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田中雅子(たなか・まさこ)
1967年名古屋生まれ。大学卒業後、会社員を経て留学したイギリスでNGOの活動に出会う。帰国後、シャプラニールスタッフとして勤務した後、1995年よりネパール・カトマンズ在住。現地のNGOとともにスラムの調査を行った。1999年より日本赤十字よりバングラデシュへ赴任。2002年より国際協力事業団の専門家としてガーナに赴任。 |
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