■ネパールで何をしようか?
「どうしてネパールに来ようと思ったんですか。」日本からの来客はもちろ ん、ネパールの人にも必ず尋ねられる。待ってましたとばかりに、熱っぽくネ
パールのことを語れるとカッコいい。だが「夫の転勤で」と答えた途端、相手 はがっかりした表情になる。しぶしぶながらネパールに住むことを決めた頃、
私はネパールで何をして暮そうか目処がつかずいらだっていた。一度は「南」 の国の現場を経験してみたいという思いはあったが、私の場合は組織から派遣
されるわけではないので、どこで何をやるのか一人で考えなくてはならない。 いったい個人で何ができるだろうか。
「日本からの観光客が多いんでしょ。ガイドでもすれば」「今まで忙しくし てきたんだから、趣味に没頭するとか、のんびり暮したら。家事だって使用人
がやってくれる世界だもの。日本じゃできない生活だよ」―――どれもそれな りに説得力のある提案だ。しかしネパールにしばらく腰を落ち着けて住むなら
日本を向いて仕事をするのもつまらない。時間があり余るほどあるからと言っ て、ウチの中で趣味に興じるのも・・・。それに私にはこれといった趣 味がない。「あっちにもNGOがいっぱいあるっていうじゃない。ボラン
ティアすれば」―――これならできそうだと一瞬思ったが、長期間にわたって 専門家でもない日本人ボランティアを作業に従事させる団体などないだろう。
ネパール語は勉強するとして、相手のNGOに貢献できるような技術や専 門知識がなくてどうする? 日本のNGOで働いた経歴も何か「伝え る」ものがなければ意味がないような気がしていた。
それなら「学ぶ」ことから入ればいい。ネパール語だけでなく開発の現場で 起きていることを学ぶのは、それ自体有意義なことだ。しかし、すでに学生で
なくなっていた私は一方的に学ぶということに抵抗があった。「北」の富める人が「南」の人の暮らしを興味本位に観察するのならそれは「知的搾取」に他
ならない、とある人が言うのを聞き、ますます何をすればよいのかわからなく なった。
■「学んで伝える海外協力」との出会い
ぐずぐずと悩む私の背中を押してくれたのは、ラテンアメリカ・アジア住居 奉仕団(SELAVIP)というNGOで活動しておられるホルヘ・アンソ
レーナさんだった。私は1994年の春ごろから、各国のスラム事情を学び 経験交流をめざす人たちとの勉強会に参加していた。それは1年の半分以上、
世界の現場を見て歩いているアンソレーナさんの話を聞く会として出発してい た。集う人の多くは建築家や都市計画の専門家で私だけが素人だったが、建物
のことが話題になることはほとんどなく、そこに住む人たちの力をどのように 引き出していくか、地元のNGOは地域の住民組織とどう関っていくのか
という話に重きが置かれていた。それらは海外協力の最前線のテーマであり、 また日本にいる自分たちがどう貢献できるのかという議論は、専門家でない私をもその気にさせてしまう魅力があった。
「アンソレーナさんみたいにスラムの運動の事例をたくさん知っていたら、 私もネパールのNGOに入っていきやすいのですが、まだ何にも知らない
んです」と私。「じゃあ、ネパールで学ぶことから始めればいいんです」とア ンソレーナさんはおっしゃるが、「知的搾取」のことが頭をよぎる。「私、今
まで人から教わっていろんな経験をしましたが、長くネパールに住むんだった ら学ぶばかりじゃいやなんです。ネパールの人たちに何もお返しできないじゃ
ないですか。」「経験を伝えるというのは、何もよその国のスラムのことを知 っていなくてもいいのですよ。あなたがネパールで知ったことを別のネパール人に伝えることから始めればいい。ネパールで学んだことをいつか別の国の人に伝えればいい。伝え合う仲間を増やしていけばいい。私も仲間を励ましつつ
、学ぶことから始めたのです。あなたにもできますよ。」そしてネパールのあるNGOを紹介してくれた。
私はそれまで、何か教えてくれた人にそのままお返しをしなくてはと考えて いた。それも成功したプロジェクトの紹介とか、素晴らしいアイデアを提供す
るような大きなことでないとお返しにならないような気がしていた。だが一期一会になってしまう人も多いし、実際に人々が期待しているのは大成功したよ
その国の話より、ほんの小さなアドバイスや励ましなのかもしれない。それに 自分一人で取り組むのではなく、私と関ったネパールの人がその担い手になっ
ていく、私はそれを仕掛ければいいのだ。そう思うと、ネパールに行くことを 前向きに考えられるようになった。
■ 街の脇役たちとの小さな試み
「学んで伝える海外協力」の担い手は私や地元NGOのスタッフだけに限らない。スラムの住民自身が交流の機会をもつことで共通する課題について 考えたり、新しいアイデアに出会ったりできる。過去1年半にやろうとしたことは、自分一人で動き回って問題を解決するのではなく、私自身がまず行政や
NGO、他の地域の動きを知り、それらのサービスや仕組みを上手に利用するための知恵や方法を住民に伝えていくことだった。
この連載では、経済的・社会的に不利な立場にあるために社会の周辺に追いやられがちだった「街の脇役たち」が、それまで縁がないと思っていた社会の
中枢にいる人たちと交渉をして生活環境を変えるなど、自らの人生を自分で選択していく「主役」になるストーリーを紹介した。スラムの多くは他に住むところがなくて集まってきた人の街だが、今はここで主役を演じている人がたく
さんいる。そうした住民の中からシャンティという少女を取り上げたのは、私に人間の可能性を考えさせてくれた最も印象深い出会いだったからだ。シャンティは私がそのスラムに出入りし始めた時は、学校へは行かず毛糸紡ぎをしている少女の一人でしかなかった。参加型調査(本連載第4回参照)の頃、お母さんたちの後から調査の様子を覗きこむようになり、ようやく顔を覚えた。だが当時16才と若く、住民のリーダーでもなかったことから、私は彼女に注目していたわけではなかった。彼女が担い手として関り始めたのは、別のスラムを見学に行った時からだ(第6回)。記録係が一人はいないとまずいという話から、読み書きのできる彼女も参加することになった。そこで出会った人から刺激を受けて、スラムの女性たちが、貯金グループの結成や洋裁トレーニ
ングのことなど、よそのグループの経験を見聞きし、仲間に伝え、一緒に考えるという活動が始まった。その流れで識字学級を始めることになり、シャンティは教師のトレーニングを受けた(第8回)。もっと生活条件の厳しい村で収入向上や保健衛生などさまざまな活動をする人と交流したことで、彼女は一皮むけた。ただ新しい世界が広がることへの新鮮な喜びというだけでなく、「私たちも絶対、自分たちの暮らしを変えるんだ」という覚悟を決めた強さが備わった。そして実際に教育文化省やカリキュラムセンターに足を運んで識字教材を無料でもらいうけたことで、「やればできる」ことがわかりおおいに自信をつけた(第9回)。
調査を始めてからこれまでのことは、私のシナリオどおりではなかった。実のところ、住民と同じくらいいやそれ以上に何をどうしていいかわからずにスラムに足を運んでいた。だから偶然こうなったという点は否定できないし、選挙による妨害など予期せぬ出来事が起るとなすすべがなかった(第10回
)。どうすればいいかわからなくなったら、他の人から学ぶことで乗り切ったように思う。ネパールには私よりも現地の事情に明るい人がいるし、私が去っ
た後もここで住民と共に歩んでいく人たちこそが、本当の意味での仲間たりうるのだ。だから自分一人で背負い込もうとせず、随分多くの人に協力してもらった(第5回、第12回)。
住民たちとの出会いは私に様々な可能性を感じさせてくれたが、それが可能性だけに終わらず、一つずつ実現していくためには外からの支援が欠かせないことも思い知らせてくれた。住民同士の交流を例にあげれば、その時々のタイ
ミングや、必要な事柄を考えて、出会いの場面を作り、演出することがとても重要だ。自然発生的にこういう動きが出てくるケースもあるかもしれないが、
私の知る限りそれは稀だと思う。一つでも住民を刺激し、活動のエネルギーに 、そして解決の糸口になるアイデアが出れば本望だが、何も生まれないことだってある。だから適切な情報収集、場面作りとその後のフォローが外から関る者の役割なのだ。ただ住民同士の交流はきっかけ作りにすぎず、フォローと呼ばれる部分で事業を具体化する時点になって、私は個人で関っていることの限界を感じた。
一見仲良く見える人たちでも実はお互いの信頼関係に乏しく(第11回 )、いざという時に責任を負える者の存在や外からの支援がないと進まないことがあることに気づいた。地元NGOが関るようになって、このスラムでも識字学級のための小屋を作り、グループ貯金も始まった。外から支援が入ることで住民が依存的になりはしないかと懸念したが、今のところ住民自身が主導権をもって事業を進めており、それは私の取り越し苦労だったようだ。私と付き合った1年ほどの間にさんざんトラブルがあったことが良いレッスンになったのかもしれない。
■ 物語は続く
シャンティの成長物語はこれで終わったわけではない。つい最近会った時には、今度インドの路上生活者のグループと交流する企画があるのだが何を話そう、むこうの活動はどんな様子だろうと期待に胸をふくらませていた。彼女が日々の生活に追われて投げやりだった頃、まさかこんな話をするようになるとは思ってもみなかった。しかしまだ不安材料もある。これまでは他のグループ
と交流することで新しいアイデアを得てきたが、ネパールのスラムの問題は今のところ土地の獲得や再定住など根本的な解決の糸口が見えておらず、私自身
も地元のNGOと都市固有の問題に取り組みつつも「これだ!」というも のが見えていない。グループを作って貯金をする段階を過ぎた後、住民たちがどう交渉していけば居住の問題を解決できるのか、頭を悩ませている。
シャンティのその後、ネパールのスラムを取り巻く状況の変化、そして私の 関り方・・・またいつかお伝えする時がくるまで、一人でも多くの「街の脇役たち」が主役を演じる機会が得られるように経験交流の場面を演出していきたい。そして私自身もどこかで住民として主役を演じてみたいと思う。
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田中雅子(たなか・まさこ)
1967年名古屋生まれ。大学卒業後、会社員を経て留学したイギリスでNGOの活動に出会う。帰国後、シャプラニールスタッフとして勤務した後、1995年よりネパール・カトマンズ在住。現地のNGOとともにスラムの調査を行った。1999年より日本赤十字よりバングラデシュへ赴任。2002年より国際協力事業団の専門家としてガーナに赴任。 |
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