私はいずれネパールを去る日が来る。調査を初めて以来頭を悩ませてきたのが私自身の引き際だった。「調査」という段階を過ぎても、識字学級の見学だ、子供会活動の紹介だと用事を作っては、月に2、3度顔を出していた。私が行かなくても別に問題はないのだが、行けば離婚の話だの子供の学校のことだの相談を受け、できる限りの情報を集めてまた行くことになる。最初に「1年たったら、日本に帰らなきゃいけない」と告げてあったので、1年を過ぎる頃から関りの深かった住民たちは「これからは誰に相談すればいいの?」と心配気に尋ねるようになった。
ちょうどその頃、私の受入先でもあるネパールのNGOが新たな活動地を探していた。彼らはすでにスラムの貯蓄・貸付けグループの育成に実績があったし、カトマンズのどこにスラムがあるのか、どんな人が住んでいるのか、といった基礎的な情報を私にくれたのもその団体だった。NGOの責任者から「あなたの調査したスラムで活動を始めたい」という申し出を受けた時、もう少し、外の力、つまり援助機関の力を借りずに、住民だけでやれることがあるのではないかとも考えたが、そういうことはすでにやり尽くしてしまっていた。結論を出す前に、まずそのNGOのスタッフと住民で会合をもつことにした。
すでにスラムでの活動実績のあるNGOのスタッフが3人もやって来ると聞き、いつもより多くの住民が集まっている。私は今日はどちらの側にもつかず聞き役に徹する。NGOの責任者が他のスラムでのグループ活動の事例を紹介する。最初はみんなフン、フンとうなずいていたが、一人の女性が突然大きな声で叫ぶ。「ダメよ。ここは。ここの奴らったら自分のことしか考えちゃいないんだから。皆で協力するなんてできっこないわよ。」識字学級の先生をしていたシャンティが反論する。「そんなことないよ。私たちできるだけのことをしてきたわ。」口火を切った女性が「あんた、皆のためとかなんとか言って、自分だけいい思いしてたんじゃないの」と言い返すと、シャンティとその女性は今にも殴り合いになりそうな勢いで喧嘩し始めた。まわりの女性たちも加わって大混乱だ。男性は止めることもなく、ぼんやり眺めている。
NGOのスタッフは「好きな色はバラバラな人同士でも、好きな食べ物の話になると気が合うってこともあるでしょ」という例えから、ここではみんな仕事も出身地も母語もバラバラだけど、きっとみんなが同じように困っていることが一つくらいあるはずだから一緒に考えてみないかと問いかけた。最後に住民のほうから「次はいつ会合を開こうか、また来てくれるか」という質問が出た。
帰路、私は不安な気持ちで「どう?あのコミュニティで活動できると思う?」とNGOのスタッフに尋ねた。「いい話し合いだったと思うよ。他のところじゃ半年か1年たたないと今日みたいな本音は出てこないもの」という返事だった。まだまだ前途は多難だがどうにか次の段階に進めそうな気がした。
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田中雅子(たなか・まさこ)
1967年名古屋生まれ。大学卒業後、会社員を経て留学したイギリスでNGOの活動に出会う。帰国後、シャプラニールスタッフとして勤務した後、1995年よりネパール・カトマンズ在住。現地のNGOとともにスラムの調査を行った。1999年より日本赤十字よりバングラデシュへ赴任。2002年より国際協力事業団の専門家としてガーナに赴任。 |
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