オハブ(我が家の「使用人」)は、私がダッカに来たときからウチにいた。いや、正確にいうと、私が来る前からウチにいた。だからここの家のことは、何でもよ〜く知っていた。
さて、私は最初ベンガル語を話せなかった(日本で多少習ったことがあったので文字の読み書きは出来たが、ほとんどしゃべれなかった)。一方、オハブはそれまでずっとベンガル語で「使用人」の仕事をしてきていたので、カタコトの英語がわかるかな、という程度でもちろん日本語は話せない。だから私たちのコミュニケーションの取り方は妙だった。
私がこの家に着いた時は、その場に夫が一緒にいたから、オハブと私の通訳をしてくれた。我が家は日本の一般的な家より広く、部屋が7つもある(分不相応に思うが、諸事情によりここが社宅となっていた)。部屋を1つ1つ廻って、電気や天井扇風機のスイッチのありかを確認する。設計がいい加減でスイッチの配置がバラバラなのと、私の頭が悪いため、1回ではとても覚えられない。それで
も一通り全部の部屋を見る。またオハブの台所の使い方や、洗濯の仕方、掃除を見せてもらう。と、ここまでは通訳付きだった。
翌日から夫は仕事に出かけてしまい、昼間はオハブと2人きりになった。
それまで1年間ここで一人暮らしをしていた夫が、使わずに放っておいた部屋を一つずつ片付ける。これまで歴代駐在員が残していった家具やモノの数々が、この家のあちこちに散らばっているのだ。しかし、いろんなモノをドサッと捨ててしまうわけにもいかず、どのように処分しようかと迷うばかり。それに、来たばかりの私には、今後ここでの生活に何が必要で、何が不必要となるのか見当もつかない。
カタコトのベンガル語でオハブに聞く。「コレハ、ナンデスカ?」するとオハブは言う。「○○さんが使っていたカーテンです」え、○○さんの?そんなに古いものなの?…じゃあ…「コレハ?」「××さんが使っていた車のシートカバーだと思います」…そう。どうしよう、捨てていいのかな。布はまた使うかな。「washシテアリマスカ?」「はい」…ふ〜ん。「コレハ?」「多分、洗ってありません」…そう。私は黙って作業開始。洗ってある布をきれいな紙袋にしまい、きっちり封をする。それ以外のものをダンボール箱にしまっていく。オハブはそれを見て、他の布をたたんでくれる。
こうして毎日が過ぎていく。
別の部屋では、ソファセットがあっち、こっちにばらばらで置いてある。「オハブ。タスケテクダサイ」あとは身振り手振りでこの家具をあの部屋へ、これはこっちへ、と指示する。そして私自身も、家具をどんどん運び始めようとしたのだが、オハブは私を制し、自分がやると言う。はっとして、私はマダムだから働いてはいけないのかな、としばらく様子を見ているが、やはり我慢できずに結局は自分も動いてしまう。そのうちオハブも、私をそんな人だと思ったのだろう、1週間後には、すでに2人で大きな家具を一緒に担いで運んでいた。
ある日、ジュートの古いタオル掛けを見つけた。汚れているし、これは捨ててもいいかなと思いながら聞く。「オハブ。コレハ、ナンデスカ?」「これは△△さん、very likeです」…え?今の、英語?バングラ英語かな。でも、わかるわかる。△△さんがお気に入りだったものなのね。じゃ、ちょっと取っておこうかな。…この人、なかなか可愛いこと言うじゃない。私は笑って「ソウデ
スカ」と言う。今度△△さんに聞いてから処分しようっと。
暑い中、オハブはよく働いた。ベンガル語はろくに出来なくても、日本語の独り言と、英語と身振り手振りで、どうにか私の意思を通じさせれば、この人はいろいろ助けてくれる。これは、ありがたい。部屋の片付け以外にも、洗濯、掃除、買い物などを手伝ってくれる。夫よりも、この家のことをよく知っているし、ずっと「役に立つ」わね…。
色々なことを分かっている「使用人」がいるとホント助かるよね、というのが当初、手探り状態の私の率直な感想だった。(…つづく)
97年〜99年滞在時の日記は以下でご覧いただけます。
白幡めぐみ(しらはた・めぐみ)
1967年千葉県生まれ。大学卒業後、アメリカのNGOでインターンとして1年間ボランティア活動に従事。帰国後の92年9月から97年3月までシャプラニールのスタッフとして東京事務局勤務。97年から99年までバングラデシュの首都、ダッカに在住。2001年8月から2005年12月まで、再度夫の白幡利雄(シャプラニールダッカ事務所長)とともにダッカに滞在。
|
|