| 第1回: |
「石山民子流バングラデシュの楽しみ方の巻」 |
バングラデシュが独立宣言をした1971年3月26日の深夜、私、石山民子も遠 く離れた日本の地で産声をあげた。そう私とバングラデシュは同じ誕生日。バ
ングラがもし大きくなったらちょうど私と同じくらいになっているはずである。 これが私とバングラデシュの縁の始まりだった、かもしれない。
私がバングラデシュを初めて訪れたのは8年前キリスト教系のワークキャン プに参加した時であった。まだ学生で悩みも多い時期だっただけに、バングラ
デシュの印象は深く、その後ベンガル語を習ったりボランティアで長期この国 を訪れたりと、私の20代は随分バングラデシュに翻弄されてしまった。その後
就職、結婚とやっと日本での生活の基盤を築き始めた頃、夫の転勤で再びこの国での生活が始まってしまった。日本での生活に後ろ髪を引かれながらのスタ
ートだったが、なんとか1年が経った。
運良く、私はバングラデシュの言葉や文化や生活習慣にずっと興味を持ち続 けて来られた。ツアーでバングラデシュを訪れた後、ベンガル語でコミュニケ
ーションがとれたらいいな、と軽い気持ちで早稲田奉仕園のベンガル語講座を受講した。このあたりが猪突猛進型とか「一見普通なのに実は変わった人」と
か私が人から思われてしまう所以であろう。ともかく、英語も日本語にさえも 自信のない私だが、ベンガル語にだけはいつのまにか没頭してしまったのであ
る。が、先生も生徒も双方手探りという感じで、授業はなかなかスムーズに進 まず話もよく脱線した。早く先に進んでほしいと思ったこともあったが、先生
が故郷を懐かしんで話してくれたエピソードは、不思議なことに今でも鮮明に思 い出せる。基礎的な文法を習うのに2年半もかかり言葉を学ぶ上では遠回りだったが、2年半も気長に付き合ったお陰で、実際にバングラに住んでみてから
ではなかなか習えないことをたくさん習えたとも思う。例えば今知っているベ ンガル語の歌の殆どはその頃習ったものである。
ボランティアとして滞在していた頃は今とは質の違う、例えばトイレや食事 のことといった、もっと生きることにより近いことで悩んでいた。必死に生き
ようとしているから表情も言葉使いも荒くなり、今振り返れば恥ずかしながら、 我が儘な外人そのものであったと思う。そんな時期を乗り越えられたのも、この国のことをもっと知りたいという気持ちがいつもどこかにあったからだと思
う。例えば、村で行き詰まった時には、木の名前やその木が人の生活にどう役立つかを村人に聞いて回ったり、女性の台所仕事を長時間座り込んで、それぞれ
の季節の食べ物や昔から伝わる知恵を教えてもらったりした。それらのことは閉鎖的で時に陰険な村での人間関係を一時でも忘れられたし、そんな日々を繰
り返すことで初めて行った場所でも景色からたくさんの情報を得ることができ るようになった。
またベンガル人の家族形態を垣間見ることができたのも収穫の一つである。私はボランティアから帰って日本では、主に老人とその家族に関わるソーシャ
ルワーカーとして働いていたが、家族というものを学生の頃より現実的なものとして捉えられるようになったのは、バングラでの経験があったからだと思う。
バングラデシュでは相互の程良い甘えと助け合いが社会にとけ込む際の秘訣となるため、個人主義を捨てざるをえない。自分自身のこの変化がなかったら、「新人類」と呼ばれた世代に属する私は「家族は空気のようにあって当然のも
の」と思ったままで、家族の価値に気付くことはなかったかもしれない。社会 的背景を無視してバングラの家族を直輸入などと無謀なことは考えないが、家族の価値を気付かせてもらえたことは家族と接する仕事をしていく上で非常に役立った。
現在はダッカで「自分の家」を持っているのでバングラにどっぷり浸かった生活を強要されることはない。自分のプライバシーに踏み込まれることがない代わりに、自分から出ていかなければゆっくり人々と話をする機会もない。こ
れはこれで味気ないので、できるだけ友達を訪ねたり村に出かけて行ったりするようにしている。昨年の秋、モニプリ人の方の田舎に夫と二人寄せてもらったが、モニプリの生活習慣、特にハーブをふんだんに使った食文化には大変な
興味を覚えたし、自分たちの抱える問題を含めてオープンに話をしてくれたのでモニプリ人について深く理解することができた。人々に温かく受け入れられ、静かな環境の中ゆっくりくつろぐことができてとても良い旅になった。不思議なことにこの旅を境に私のバングラ生活への不安は払拭されていった。どんなに便利で快適な生活を手に入れても、現地の人と仲良くし、助けを求められる関係を作らなければ海外で安心感を得ることはできないのだと思った。この1年夫の理解のお陰もあり、バングラ国内、国外併せて実に多くの地を旅させてもらったが、今振り返ると一つの旅から帰るごとに自分の殻を取り除いて来られたように思う。このようなことは、現地により近いNGOの駐在員の家族だから許される事だと思う。シャプラニールを訪れる沢山の方々から得られる新し
い刺激や情報も今の私には無視できない大きなものとなっている。
それ以外に、今ベンガル刺繍やダンスといった習い事をしたり、ダッカで時々行われる音楽や舞踊の催し物には積極的に参加するようにしている。今までこうした文化について腰を据えて勉強したことがなかったが、その気になると色々な機会があるものだ。バングラやインドの歴史古く奥の深い文化には飽きることはない。私にはまだまだ知らないことが沢山ある。だからこそこの国に住む価値があるのだと思う。
冒頭でバングラデシュに翻弄されたと書いたが適切な表現ではないだろう。実は私はバングラデシュから本当に多くの恩恵を受けているのである。そういえば夫との結婚の機会を与えてくれたのもこの国であった。もちろんここで生活する以上楽なことばかりではない。気候は厳しく、人間関係でも摩擦が生じ
やすい、洪水やら強盗やら政治運動やらと色んな理由で行動は規制される。
それぞれがストレスをためているので夫ともよく喧嘩をした(日本でも同じ?)。そんな嫌な面ももちろんあるけれど、20代最後の3年間どうせ海外で暮
らすならせっかくだから楽しんじゃおう、というのが私のモットーである。半年間このVのページを私のつたない文章の為に割いていただけるそうなので、敢えて「私を楽しませてくれるバングラデシュの素敵なお話」を選び、紹介していけたらと思う。
さて、エッセイの名前に使ったクリシュノチュラとは、バングラデシュの国樹で日本名を火閻樹という。クリシュナ神のかまど(チュラとはベンガル語で髪飾りを意味する)の火のように真っ赤な花をつけることからこの名前がつい
たと聞くが、4月中旬からその大木に真っ赤な花を咲かせ真夏の到来をつげる。 私の分析によると、食べられる果実もつけず木材としての利用価値もないのに、純粋な観賞用としてベンガル人が植える数少ない樹の一つである。国樹らしく誇らしげに国会議事堂の周りで今年も開花宣言を待つクリシュノチュラと、皆さんお馴染みのあまーいミルクティを、実にバングラ的なものと考えエッセイの名前に使わせてもらうことにした。まあ、日本でいうなら「おすしと桜」そんなところだろうか。
注1:インド北東部モニプリ王国(現マニプール州)から150年ほど前に難民と してバングラデシュに逃れてきた人々。現在バングラデシュ国内に約5万人住
んでいるとされている
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石山民子(いしやま・たみこ)
1971年3月生まれ。埼玉県出身。社会福祉学専攻。大学卒業後、1995年7月より10カ月間、ボランティアと語学研修の目的にてバングラデ
シュに滞在。帰国後東京都内にある老人保健施設に相談指導員として働く。夫であるシャプラニールスタッフで元ダッカ事務所長の筒井哲朗とともに1998年3月から2001年夏までダッカで暮らした。現在はアジア砒素ネットワークに勤務する。 |
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