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バングラデシュ・スタディツアー2003冬報告

僕は生きてたんだ

バングラデシュにやってきた♪

チリリーン、ジリリーン、チリーン、リリーン、チリーン、チリリーン…
ピロリロピロリロピロリロリ、ブー、ブァー、ピロピロピー、ビー…

ベル、クラクション、エンジン、声、こちらで、あちらで、そちらで、こちらで。でも、いろんな音が鳴り響いているのに、なぜだかうるさいとは感じなかった。むしろ、リキシャのベルが、心地よかった。

喧騒という一言では言い表せない、この感覚。音と、匂いと、空気と、風と、そして目の前に広がる、その風景。カラダのすべてから、バングラデシュが入ってきた。

そして何よりも、強く感じる人の視線。ダッカにいると、そこら中の人が僕を見てくる。右から、左から、前から、後ろから、そして上からも。そこでは、僕は「外国人」なんだということを、どこの国よりも強く感じた。ダッカにいると、主張しなくても僕は僕の存在を認識させられた。

リクシャの列
座って話をする村の人
村の子ども

大きな差

僕は、ひときわ強烈に感じたことがあった。それは、「バングラデシュには人間がいる、そこに生きている」ということだった。そこには、バングラデシュ人じゃない、ベンガル人でもない、ひとりの人が、生きていて、人間の「生」の営みがあった。ただし、それは、「彼(女)らは同じ人間なんだ」という感覚とは、全く違っていた。僕がバングラデシュで感じた「生」には、それとは全く逆の、大きな大きな差を感じた。彼、彼女たちと僕との間には大きな差がある。そんな思いが僕の胸の中でひっかかっていた。

いま振り返ってみると、バングラデシュでは人がいるという感覚がひしひしと体全体を通して伝わってきた気がする。彼(女)らの表情、体臭、体温、体の動き、声、笑顔、またバングラデシュという土地から発せられる匂い、空気、音、街の様子、そういったものから醸し出される、生の匂いを僕は感じ取ったのかもしれない。人が生きている、という匂いを。その匂いを僕の本能が嗅ぎ、「生きる」という人間の本能を、僕に思い起こさせたんじゃないだろうか。その感覚は東京では決して感じることのできないものだった。もちろん、日本のどこかに行けば、それを感じられることがあるかもしれない。しかし、あのバングラデシュであるからこそ感じ取ることができるものもあったのだろう。

村の人
目の大きな幼子
ドロップインセンターの子ども

二つの「生きる」
村では特にショミティの活動を見て回った。女性ショミティのメンバーたちはみな積極的に自分から話し、「できることが増えた」「子どもにもっと勉強させてやりたい」と活き活きとしていた。その姿からは、「私たちは生きている」という体から発せられるエネルギーを強く感じられた。また男性ショミティの識字学級では、大の大人がせっせと教科書を読み、文字を書く姿には、胸の奥をつかまれる思いがした。その識字学級にいたメンバーのひとりが、「私たちは文字を学ぶ前は目が見えていなかった。しかし、文字が読め、書けるようになった今は、目が開かれ、今まで見えなかったものが見えるようになった」と言ったとき、ランプに照らされる小柄な彼の姿はとても大きく見え、僕は彼らの内からこみ上げてくるその強い存在感に圧倒されてしまった。

ダッカではストリートチルドレンの支援施設を見させてもらった。そこでは子どもたちは「ストリートチルドレン」である前に、「子ども」だった。みな元気があって、笑顔がかわいらしくて、子どもたちの元気な姿には、こちらの方も元気にさせられた。しかし、そのとき一歩ひいて考えてみたら、彼(女)らは「ストリートチルドレン」であるという事実があった。

ドロップインセンターで、ひとりだけ離れて座っている女の子を見たときには、その事実の大きさ、深刻さ、その距離の遠さにただただ唇を噛み締めるしかなかった。その女の子はおなかのところにバナナを抱え、他の子とは全く交わろうとせずただじっと座っていた。他の子たちは日本人の僕たちがいるとはしゃいで僕たちと遊ぼうとするのに、その子は僕が近づいても話しかけても全く目もくれず、ボーっと前を向いて座っていた。他の子どももそれぞれいろいろな思い、つらさを抱えているのだろうが、その子からはその胸の中の想いの深さが空気を伝わって僕には感じられた。その感覚は、「生きている」というメッセージを直接的に感じた他の経験に比べ、僕の胸の中にへばりついてじっとしていながらもその存在感を持っていて、僕は「生きる」という行為の持つ奥深い意味を何度も考えさせられた。

ショミティの女性たち
ストリートスクールに来ていたストリートチルドレン
男性識字教室の様子

僕にとって「生きる」って…?
僕たちの生活に比べたら、確かに彼(女)らの生活は物質的には乏しいかもしれない。チャンスが少ないともいえる。でも、彼らはそこに「生きていた」。本来の人間のままに生きていた。なぜ生きるかとか、どのように生きるかという難しいことではなく、ただ純粋に生きるがごとく生きていた。僕はバングラデシュに行って、それを肌で感じた。

翻って、僕は「生きている」だろうか。大学院、論文、レポート、就職…。なんとかの本を読んだとか読んでないとか。だれそれを知ってるとか知らないとか。どこそこに勤めてるとか。どこそこの大学院に行くとか。いくつ論文を書いたとか。なんとか賞をとったとか。どこそこの講演会に出るとか。どれだけのお金をもらったとか。どれだけの実績があるとか。あれやこれやと人に認められるのどうのとか。あのためにこれをしなきゃ、あれをしなきゃ。いつでも、競争、競争、競争…。一番にならなくてもいい、でも人に認められたい。そんなに周りを気にしながら生きていて、果たして僕は、純粋に生きるという行為をしているだろうか、人生を営んでいるのだろうか、生きるということを感じているだろうか。立ち止まって考えてみると、僕はあまりにいろいろなことにとらわれて生きている。

彼(女)らが上のようなことを考えていないといっているわけではない。彼らのほうが自由に生きていると言いたいのでもない。確かに、彼(女)らだっていろいろな雑事、日常のこと、名誉、お金…、さまざまなことを考えているだろう。でも、それよりも僕はただ彼(女)らに生きるというその行為を感じた。それなのに自分は日々の生活に埋もれて、生きるという基本的なことを忘れていた。「生きる」という根本的な行い、営みを、人間はしていたんだということを、僕は忘れていた。彼(女)らを見ていて、僕は人として最も根本的なことを思い出した。

「僕は生きてたんだ」

それは、僕に「生きる」ということの意味をあらためて考えさせた。

村の子ども
スラムにいた子どもたち
突き抜けるような青い空

(2003年度広報財務グループインターン 森田真人)

 

 

 

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