シャプラニール=市民による海外協力の会
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シャプラニールについて

藤岡ダッカ事務所長のブログ1998年から3年弱インドに住んだのをきっかけに南アジアとの縁ができ、引き寄せられるようにシャプラニールへ…。そして2005年5月からダッカへやってきました。最近の趣味は、そぞろ歩きを楽しむダッカ市民に混じり、サルワール・カミーズにスニーカーを履いて夕方の公園でウォーキングすること。バングラデシュの村や都市で今起こりつつある変化をなるべくコマメにお伝えしていきたいと思っています。どうぞよろしく。

特定非営利活動法人
シャプラニール=
市民による海外協力の会(地図・住所
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東京都新宿区西早稲田2-3-1
早稲田奉仕園内
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2007年08月16日

それぞれの8月15日

きのうは8月15日、日本では終戦記念日。そして、日本だけでなく、アジアの様々な国の人々にとって特別な日でした。

この日、バングラデシュではボンゴ・ボンドゥ(ベンガルの友)の愛称で親しまれた建国の英雄、シェイク・ムジブル・ラーマンが家族らと共に暗殺された命日でした。暗殺事件があったのは1975年。それから32年がたちました。

バングラデシュではこの日は追悼の日です。テレビは独立の頃の白黒映像のオンパレード。在りし日のボンゴ・ボンドゥが力強く演説する姿や、凶弾に倒れたあとの姿、独立に沸く当時のバングラデシュの人々の姿などが繰り返し映し出されていました。

(ちなみに海外にいて暗殺を免れた家族のひとり、アワミ連盟党首のシェイク・ハシナ前首相は、国会議事堂敷地内の建物で暫定政権による軟禁状態が続いています。父の命日、彼女は断食をし、もうひとり生き残った妹に電話しようとしたけれど許可が下りなかったそうです。こういう話が報道されると同情する人も多いでしょう。)

一方、バングラデシュが独立する前はその一部だったパキスタンは、独立記念日が8月14日。これは1947年のことなので、ちょうど今年は60周年です。英植民地支配からパキスタンと同時に独立したインドは独立記念日が1日違いの8月15日。日本の終戦のちょうど2年後です。

ダッカの我が家のテレビではケーブルTVで何十ものチャンネルが見られます。ほとんどはバングラデシュとインドの番組ですが、CNN、BBC、NHKワールド、そして中国の国際放送であるCCTV、韓国の国際放送のArirang TVなども見ることができます。 

昨夜、私はチャンネルを何度も切り替えながら、アジアの国々の8月15日の番組を見ていました。中国のCCTVでは「8月15日と靖国」という長い特別番組をやっていて、様々な専門家が日本の政治の動向やナショナリズムの今後の行方について真剣に議論していました。

韓国のArirang TVでは、戦時中当時のソ連に強制移住させられ、戦後もそのまま取り残された韓国人のお年寄りを韓国の高校生が訪ね、共にシベリア鉄道に乗りながら、当時の話を聞く、というドキュメンタリー。歴史を自分たちが語り継がなければ、と話す韓国の高校生たちの真面目さが心に残りました。

インドはというと歌番組の端っこに「60」を中央に記したインド国旗のマークが翻っていたりしてお祭りムードの一方、独立記念日前後のテロを警戒して厳戒態勢の様子がニュースで流れていました。

日本にいるとテレビを見ても日本の8月15日以外あまり見えないのですが、ここにいるとべつの8月15日をTVで見、他の国の人々の気持ちにも思いを馳せることができます。以前は映っていたインドネシアのTVなど、東南アジアの放送は最近入らないのが残念。そういえば太平洋戦争の終結を受けて独立を宣言したインドネシアの独立記念日は明日、8月17日でした。

さまざまな記念日が奇しくも偶然に重なった日、8月15日。記念日の内容は違えども、この日はアジアの多くの人々にとって、自国の歴史と死者を想い、痛みを伴う記憶を蘇らせる日です。


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2006年12月16日

今日はV-Day

今日、12月16日はバングラデシュのVictory Day(戦勝記念日)。1971年のこの日、9ヶ月の独立戦争の末、パキスタン軍が無条件降伏し、バングラデシュ独立軍が勝利したことを記念する日です(ちなみに独立記念日はバングラデシュが独立を宣言した3月26日)。

朝からボンボンと大砲だか花火のような音が聞こえ、家々の屋根には緑地に赤い丸の国旗がはためいています。12月中旬のバングラデシュはちょうど日本の10月初旬のような気候なので、屋外イベントにもちょうどよく、この日はあちこちで記念イベントや運動会などが行われます。

私たちの活動地でも、マイメンシン県イショルゴンジ郡で活動するパートナー団体のCOLIが、貧しい子どものための補習教室や働く子どもの夜間教室に通う子どもたちの運動会と、識字教室修了者のための作文コンテストの表彰式を今日行う予定にしていて、私もマイメンシンまで出張してこれに参加するのを楽しみにしていました。

本当なら今頃そのご報告ができるところだったのですが、おとといの晩から不覚にも熱をだしてひっくり返ってしまい、出張はキャンセルして家で寝ているはめに。出張を理由にお断りした食事会のお誘いもあったのに、なんとも面目ない状況です。パン食い競争でぴょんぴょん跳ねる子どもたちの姿や、作文コンテストに入賞して山羊をもらって喜ぶ村の人の顔が見られなかったことがとても残念。きっといい写真も撮れたのになあ...。

と悔しがっていても仕方ないので、独立35年後の今、バングラデシュの人々は独立戦争勝利の頃をどんな風に振り返っているのか、その気分を感じさせる今日の新聞の社説の一節をご紹介。訳は大雑把でゴメンナサイ。

●Daily Star 社説「戦勝記念日~本当の勝利は未だ手に入らず?」より(原文はコチラ

(前略)今日、私たちがあの歓びの瞬間を思い出すとき、それがとても遠く、あたかも別の惑星の、別の人々の上に、まったく別の時代に起こったことのように感じられるのは何故だろう?今日のバングラデシュが、私たちの遠い日の夢に遥かに及ばないためだろうか?民主主義や法による支配、庶民の共和国という、35年前に私たちが描いたことが未だに実現されていないためか?私たちが自らの夢を実現できていないばかりでなく、その夢自体がどんなものだったかを忘れかけているためか?これらの疑問への答えは単純にイエスやノーで答えられるものではない。そこにはイエスもノーも、そしてもっと多くのものが含まれている。

 しかし、今日ここで私たちが大声で叫びたいのは、成し得なかったことも、実現できていない夢もあるけれども、私たちは自由で、独立した、私たち自身の国を持っているのだということだ。私たちは自身の事柄についての悪いマネジャーだったかもしれないが、それでもマネジャーは部外者ではなく、私たち自身なのだ。いろいろな面で私たちは同胞を失望させたが、別の面ではいくつかの可能性を実現した。戦勝記念日に際し、私たちは誓いを新たにし、過去の失敗に腐るばかりでなく(しかし確実にそこから学び)、私たちが成し遂げられたことを継続できるよう努力しよう。悪い政治は未だに私たちにとって最大の破滅のもとだが、よい政治こそがその一番の解毒剤だ。民主主義に代わるものはないが、私たちはまだそれが十分機能するほど努力していない。私たちが悪いものをいつどうやって善いものに置き換えられるか、という未解決の問題への答えは、今日ますます薄れかかっている。この吉日に際し、私たちの指導者たちの上に良識が広がることを切に祈る。

 


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2006年09月28日

【本の紹介】<女中>イメージの家庭文化史

P1010813.jpgダッカじゃまだ「今日も暑いね。雨降らないかねえ」などという挨拶をしていますが、日本では「読書の秋」ですよね?ということで今日は本のご紹介。「<女中>イメージの家庭文化史」清水美知子著(世界思想社)という本です。

ここ数日時代小説ばかり読んで頭が江戸深川べらんめえ調の世界になっていた私。昨夜「こう小説ばっかり読んでちゃあ仕方あるめえ」と思って、ナナメ読みのままだったこの本を読み直したらいやー実に面白かった。

この本は帯にあるとおり、明治時代は<下婢><下女>、その後<女中>、そして<お手伝いさん>と呼ばれるようになった住み込みの家事使用人女性のことを通して、近・現代日本の家庭生活を浮き彫りにした本です。明治から昭和までの新聞や雑誌はじめ膨大な文献から<女中>に関する情報が引用されていて、随所に「へえ、そうだったのか」と唸ったり「これじゃまるで今のバングラデシュと同じじゃないか」と思うような話がいっぱいあるんです。

例えば、明治42年に週刊『婦女新聞』に載ったという「下女と奥様の苦情くらべ」という記事など、去年私たちがダッカで行った調査で使用人として働く少女たちや雇用主から聞いた話ともうまったく同じ。そのまま翻訳したのかと思うぐらい。
孫引きになりますが、この記事の要約として著者が紹介している部分を引用します。

...女中から雇主である奥様(主婦)への苦情を要約すると、①休日や休憩時間など少しも約束通りにしてくれない、②家族の人数などの条件が聞いていたのと違う、③「口に入るものであれば何でもよいのか」というくらいに食事が粗末、④むやみに人を追い使うことばかり考えている、⑤二言目には「のろいのろい」と言う、⑥女中を不正直と決めつけ少しも信用しない、などの声があがった。
 もちろん、女中の態度や行動にまったく問題がなかったわけではない。主婦の側からは①見かけは気が利きそうだが、使ってみると役に立たない②皿を壊したり食物を無駄にするなど不注意で仕方がない、③すぐに嘘をつき信用できない、④用事が多いときにかぎって外出するなど、肝心なときに頼みにならない、⑤面倒を見てやっているのに嬉しそうな顔をせず可愛げがない、といった苦情が寄せられた。(P.39)

もうほんとに同じなんですよねえ、このほとんど全部が。

大正時代に、日本基督教婦人矯風会が女中夜学校をやっていたとか、昭和初期に愛国婦人会が、地方出身の娘が就職先の宛のないまま上京し、淪落の道をたどるのを防ごう、と女中養成所をやっていたというのも興味深い話です。この女中養成所でどんなことをやっていたかというと、

入所した女性たちは1週間の泊まりこみで終日、都会での女中としての心構えと必須事項について、講義と実習を通して学ぶ。-中略- ガス・水道・電気の使い方、基本料理の講義、配膳と後片づけ、銃器の手入れと保存法、ガラスの拭き方、風呂の焚き方、市場での買いだし実習、衣類の手入れと保存法、言葉遣いと電話のかけ方、来客への応対、押し売りへの対処法にいたるまで多岐にわたっている。修了者には「実習証」が授与された。(P.127)

だそうです。昭和4年に「社会立法協会」は東京市およびその近郊の家庭女中6千人を対象にアンケート調査を実施して、その労働状況と「つらく思うこと」「こうして欲しいと思うこと」などを調べたそうで、この結果に基づき、昭和5年に以下のような待遇改善の決議を行ったそうです。(P.132)

一、原則として一日八時間の睡眠時間を確保し、少なくとも一ヶ月一日の割合をもって休日を与ふること
一、少なくとも一日二時間の自由時間を与へ、これを教養に利用することを奨励すること一、一人につき一畳を下らざる採光通風の適当なる女中部屋を供し、十分かつ清潔なる寝具を給すること
一、給金は現金をもって毎月これを支払うこと
一、家族の通常食と同等の食糧を供すること、呼称につき差別的取扱ひを為さざること
一、雇い主の都合により解雇する時は、相当の解雇手当を給すること
一、雇用中の病症に対しては相当療養の処置を講ずること

今のバングラデシュでもこれと同じ決議が必要だと頷いてしまいます。

ほかにも、大正から昭和前期にかけて、朝から晩まで自由もなく雇主に隷属しなければならない女中よりも、時間で給金をもらえる縫製工場の女工のほうが気が楽だと、女工志願者が増え、主婦たちが「女中難」に悩むようになった、という話も今のバングラデシュとよく似ています。

この頃、平塚らいてうが『婦人公論』で、女中がなかなかみつからなくて仕事ができないと嘆き、「これは、最も実際的な家庭問題であり、社会問題であります。」といっていた一方、与謝野晶子は「女中を解放せよ」というエッセイを書いて、「今後の女中は卑屈な奴隷の位置から契約労働の自由職業に移り、女中の個人性が尊重されて、八時間乃至六時間の労働以外には、自己の収容と享楽のために費やす時間を有し、労働の報酬も一日の最低賃金一円を標準とするに至るであらうと思ひます。-中略-之なら女子の職業として一つの安全な職業と云ふことが出来ますが、また一方では家庭で無闇と女中を雇はない事にもなるでせう」(P.84)と述べていたという話には、あっぱれ与謝野晶子、と拍手したい思いでした。本質的なことが見えていた人だったんだなあ。日本社会でこれが実現するのは50年後の話ですからね。

さらに、『婦人之友』の主宰者である羽仁もと子は、創刊当初より衣食住をできるだけ手のかからないように改良して家事を軽減するいっぽうで、主婦が率先して働くとともに家族にも家事を分担させ、女中に頼らない生活をめざすことを提唱していた(P.88)とのこと。当時こういう考え方はきわめて異例だったそうです。

『婦人之友』はさらに、「下婢」や「下女」にかわって使われるようになった「女中」という呼称も差別的な意味合いを感じさせるようになってきたということで、「女中」に代わる言葉を懸賞つきで募集しています。そこで「助婦」「お手伝」「家事婦」の3つが最後に残り、検討を重ねた結果一等に当選したのが「お手伝」だったということです。(P.92)「お手伝いさん」という言葉はこうして生まれたのですね。

何もかも今のバングラデシュの状況とそっくりの昔の日本の「女中」さんの話ですが、これは大きく違うなあ、と思ったことが二点あります。

ひとつは、昔の日本では「教育程度が低い農村の子女」と言ったって、小学校ぐらいは出ているひとがほとんどで、年齢も小学校を出るぐらいの歳にはなっていたということです。バングラデシュの少女たちは、うちの隣のナシマを見てもわかるように小学校すらいっていない子、今まさしく小学校に行かなければならないような年頃の子がたくさんいるのです。

あともう一点は、少女たちを雇う側の女性たち自身による議論がバングラデシュではあまり見られないことです。この二点目のほうは実はあるのだけれど私が拾えていない、という可能性もありますが。

またまた長い文章になってしまいました。でもまだ紹介しきれない面白い話、考えさせられる話がたくさんありますのでぜひこの本、読んでみてください。

こういう本が英語に訳されたら、ダッカやインドで使用人として働く少女や女性たちのプロジェクトを一緒にやっているNGOの人たちにもぜひ読んでもらいたいのになあ、と思います。よい経験も悪い経験も含め、日本の過去の経験がほかの国の問題解決のヒントになることはたくさんあると思います。



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2006年09月02日

暗殺の家でバングラデシュとSNの歴史を想う

その家は我が家からリキシャで10分足らずのところにあります。ダンモンディ旧32番通り10番地。ダンモンディ・レイクと呼ばれる池に面した住宅街の一角にあるその古い家は、バングラデシュ独立の父、ボンゴ・ボンドゥ(ベンガルの友)と呼ばれた初代大統領、シェイク・ムジブル・ラーマン(ムジブ)が1975年8月15日、軍の青年将校たちによるクーデターのため、近親者たちとともに暗殺された家なのです。

この家、今はボンゴ・ボンドゥ記念館として、暗殺された当時そのままの様子が保存され、一般公開されています。近くにありながら、足を踏み入れたことがなかったのは、このあたりが野党アワミ連盟の本拠地で、反政府集会の会場になったりしていささか物騒な地区のせいもありますが、殺された人たちの怨念のこもっていそうな家を、ふらっとひとりで訪ねようか、という気にならなかったこともあります。

この8月、来客ラッシュに混ざり、私メの夫もようやく休みを取ってバングラデシュにやってきて、このボンゴ・ボンドゥ記念館を見たいというので、8月最後の週末、リキシャに乗って行ってみました。

財布以外の荷物をすべて道路の反対側のブースに預け、ボディチェックをされて中に入ると、ブルーグレーに塗られた古い家の天井でこれまた古いファンがブンブンと回り、独立の頃のモノクロの写真が展示されていました。家は3階建てで、居室は主に2階と3階にあり、ガラス越しにムジブル・ラーマンが独立宣言の放送をした書斎や、寝室、各国の土産らしい人形がたくさん置いてある息子夫婦の部屋、応接間、ムジブの執務室などを見て回れるようになっています。ガラス板でカバーされた壁や天井の血痕。廊下の両側にかかる殺された17人の肖像画。ムジブが殺された階段には、国旗と赤い花、そしてムジブの暗殺の瞬間をやや抽象的に描いた絵が掛けられています。

このとき、国内にいた親族は幼い子どもを含め皆殺しにあいましたが、海外に出ていた二人の娘は難を逃れました。この娘の一人が前首相で野党のアワミ連盟の現党首であるシェイク・ハシナです。(アワミ連盟のウェブサイトには父ムジブに肩を抱かれた若き日のハシナや、このボンゴ・ボンドゥ記念館の階段で祈りを捧げるハシナの写真がアップされたアルバムがあります。興味のある方はどうぞ。)

部屋はどれも簡素で、日本人形がいくつも飾られているのが印象的でした。31年の歳月に、古い家具が色褪せ、家の中全体がセピア色になっているようですが、今でも何か凄惨な空気が漂っているような感じがしました。

31年前の出来事を保存する記念館を、すっかり遠くなった歴史の一部、という感じで見てきたわけですが、考えてみたらこの事件の3年も前に、シャプラニール創設時の先輩たちはバングラデシュに入っていたのでした。当時はダッカに「シャプラの家」と呼ばれ、会の名の由来となった事務所を開き、最初の活動地ポイラ村にも何人かが住み込み、手工芸品協働組合や夜間教室などのプロジェクトを手探りで始めていた頃。ムジブが殺されたクーデターの日、当時のダッカ事務所は大統領邸に近かったので、駐在員は「銃声と大砲の音が聞こえて目が覚めた」と『シャプラニールの熱い風』(めこん)には書かれています。FAXもなく、手書きの文書や録音テープを郵送して、東京とのやりとりをしていたという時代です。

その頃バングラデシュにいた先輩たちは、30数年後にもこの会の活動が続き、バングラデシュでのプロジェクトの裨益者数が2万人を超え、農村の地域事務所が現地NGOとして独立し、駐在員がインターネットのブログなどというものを使って瞬時に写真入りの報告が日本に送れるようになるなど、想像もできなかっただろうな、と思います。

駐在員としてここにいると、日ごろは目先の仕事に追われていますが、ふとした時に、多くの人たちが長い時間をかけてじっくりと培ってきた経験の積み重ねのこと、それに連なって今ここで自分が仕事をしていることに思いを馳せます。そして、今私たちは正しい方を向いて歩いているだろうか?と自問するのです。

昨日、9月1日はシャプラニールの34歳の誕生日でした。
独立直後の混迷の時代にこのバングラデシュに入り活動を始めた先輩方に敬意を表して。



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2006年05月31日

英連邦兵士墓地に眠る日本人

チッタゴンで見聞きしてきたものシリーズ第3回。

英連邦兵士墓地.jpg

チッタゴンの町には第二次世界大戦中に亡くなった英連邦兵士の墓地があります。よく手入れされたなだらかな芝生の斜面が墓地になっていて、そこにビルマ戦線で亡くなった兵士たちが埋葬されています。

「英連邦兵士」なので、イギリス人やインド人のお墓が多いのですが、ここには日本人のお墓もあると聞き、探してみました。ひとつひとつ墓石を見ていたのですが、なかなかみつからないので墓地の掃除をしている人に聞いてみると、「あそこだよ」と斜面のずっと上の右端のほうを指差しました。

右上が日本人のお墓.jpg


(左の写真の右上を目をこらしてみてみてください。ひとつぽつんと墓石が見えますよね)


そちらのほうへ行ってみると、ありました。1つだけの墓碑に、ここに眠る18人の日本人兵士の名前と亡くなった日が書いてありました。名前がわからない1人を合わせて19人が一緒に眠るお墓です。

墓地の掃除係のバングラデシュ人のお兄さんは申し訳なさそうに言いました。
「ここに埋葬されているのはチッタゴンの病院で亡くなった人たちなんです。もうひとつクミッラにある英連邦兵士墓地のほうは、日本人のお墓も一人一人ちゃんと墓石があるんですが...。」


ビルマ戦線で負傷し、チッタゴンの病院に送られ、そこで亡くなった人たち。この人たちの家族や親戚はこのことを知っているのだろうか?お兄さんに聞いてみると、

「ええ、今まで何人か家族の方がお墓参りにみえたことがありますよ。」

とのこと。もちろん、この中には名前のわからない一人を含め、家族にも知られないまま眠っている人もいるのでしょう。

日本人のお墓の墓石.jpg


「それにしてもなんでこんなに離れたところに埋めたのかね。死んでからも土の中で戦争するとでも思ったのかねえ。」と同行したダッカ事務所のスタッフ。

実はここにはほかにも「離されて埋葬された人たち」がいました。
それはアフリカのナイジェリアの兵士たち。斜面の一番下のほうに少し離れて二列、彼らのお墓があります。1人1人の墓石はきちんとありますが、他のお墓からなんだか不自然に離れています。


暑く照りつける日の光。青々と映える芝生。墓石の間で風に揺れる可憐な花々。そしてここがバングラデシュとは思えない静寂。


約60年前にここに葬られた、出身国の違う様々な人たちの人生に思いを馳せたひとときでした。


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