シャプラニール=市民による海外協力の会
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シャプラニールについて

藤岡ダッカ事務所長のブログ1998年から3年弱インドに住んだのをきっかけに南アジアとの縁ができ、引き寄せられるようにシャプラニールへ…。そして2005年5月からダッカへやってきました。最近の趣味は、そぞろ歩きを楽しむダッカ市民に混じり、サルワール・カミーズにスニーカーを履いて夕方の公園でウォーキングすること。バングラデシュの村や都市で今起こりつつある変化をなるべくコマメにお伝えしていきたいと思っています。どうぞよろしく。

特定非営利活動法人
シャプラニール=
市民による海外協力の会(地図・住所
〒169-8611
東京都新宿区西早稲田2-3-1
早稲田奉仕園内
TEL:03-3202-7863
FAX:03-3202-4593
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2008年07月12日

くたびれた日には

ダッカに駐在して3年2ヶ月、仕事の中身にはさほど自慢できることはありませんが、唯一我ながら上出来だと思うのは、これまでほとんど病欠をしていないことです。1年目は確か1日も病欠しなかったし、他の年も具合が悪くて休んだのは年間せいぜい2-3日というところ。今年度はまだ休みなし。上出来、というよりラッキーというべきなのかもしれません。丈夫に生んでくれた親にも感謝すべきでしょう。

しかし、そんな私でも3ヶ月に1回ぐらい、こりゃ起き上がれんわ、というぐらいくたびれ果ててしまう日があります。平日はダッカ事務所のスタッフたちの手前気を張っているのでなんとかなっているのですが、出張続きで2週間ぶりの休み、などというときにバッテリーが切れたみたいにくたっととなります。

昨日(こちらは金・土が休み)はそういう日でした。目が覚めたとき朝だと思って時計を見たら1時半。もちろん昼の、です。起き上がろうとしたけれど腰が痛くて起き上がれない。よろよろと身体をずらしつつベッドから滑りおり、台所に向かってコーンフレークに牛乳をかけたのを食べたものの、力は入らないし頭や腰は痛いし、新聞を読んだりメールをチェックする気力もない。持ち帰った仕事もできそうもない。

こういう日は開き直ってただひたすらゴロゴロするに限ります。結局私は昨日は3回ぐらいしかベッドから降りませんでした。こんなときは固形物を食べるのも控え、ただ芋虫のようにじっとしているのがよろしい。間違ってもレトルト食品やカップラーメンを食べてはいけません。たちまちお腹がロックしてしまい、七転八倒することになるからです。

そうして1日過ごしたら、今日はだいぶ復活しました。お腹を壊しているわけでなくても、こういう時はひたすらポカリスエットを飲み(飲む点滴)、何を食べるかはよくよく吟味します。今日のヒットはジュートのスープ。おととい作った残りを冷蔵庫から出してあっためただけですが、しみじみと「あーこりゃ疲れているときにいいわ」と思いました。明日からまた4日間フィールド出張だけど、なんとかなりそう。

<ジュートのスープのつくり方>
1. にんにく1-2片をみじん切りにする。
2. ジュートの葉適量をネバネバするまでよくみじん切りにする
3.鍋に油を入れ、1、2の順に入れ、ネバネバしたペーストのような状態になるまでいためる。
4.3に少しずつ水を足し、スープの素を入れて味付けする。
5.溶き卵を回しいれて火を止める。

*日本ではモロヘイヤでお試しください。

今のバングラデシュではジュートは一把6タカぐらいですから10円足らず。安いです。バングラデシュではジュートの葉っぱは貧乏人の食べ物だとみんな思っているみたいです。でも、要はモロヘイヤですから鉄分、ビタミンも豊富なはず。バッグなどに使う天然繊維素材としてのジュートだけじゃなく、ジュートの葉も農村の人々の栄養源としてもっと見直されていいんじゃないかなあ。

農村の最貧困層家庭などをこの時期訪ねると、よくジュートの葉を日干しにして保存食をつくっています。私もあれやろうかな。日に干して瓶詰めにしておけば、あとで水で戻してスープがつくれるんじゃないかしらん。

雨期の湿気と暑さでバテ気味のダッカ在住の皆さま、そして梅雨の日本でお疲れのみなさま、ジュートの葉やモロヘイヤ食べると元気出ますよ。お試しあれ。


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2008年05月17日

ジャスミンの花輪

ダッカはかなり暑い日が続いています。私の住んでいる部屋はアパートの最上階なので、屋上に日中当たり続けた日差しの熱がこもって、夜になってもなかなか涼しくなりません。エアコンを入れないと夜中でも部屋の温度は34度ぐらい。暑いです。

この季節、路上の子どもたちが車の窓をたたいて売りに来るのは小さなレモンを袋詰めにしたもの(1袋10タカ)やジャスミンの花輪。この花輪はジャスミンの花をひとつひとつ糸に通したものです。これをおとなの中指ぐらいの太さの短い棒にたくさん掛けて、買ってとせがみに来ます。

今夜も会食の帰り道、友人の車で自宅に向かっていたら、交差点で7-8歳ぐらいの小さな女の子がジャスミンの花輪を売りに来ました。私は夜子どもが売りにくるジャスミンの花輪は小銭がある限り必ずといっていいほど買います。ジャスミンの花はとてもいい香りで、寝るとき枕元に置いておくと気持ちよく眠れるのです。

車の窓を開けて「いくら?」と聞いたら「5タカ」という返事。「2つちょうだい」と言ったら、「10タカ」と澄まして言いながら丁寧に2つの花輪を棒から外してくれました。まるでちゃんとしたお店の店員さんみたいに。

夜10時過ぎの交差点。女の子は次のお客を探して花輪の束をかかげながらすたすた歩いていきました。淡々とした顔をして。


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2008年04月23日

4度目の夏

「暑い...」口に出したところで涼しくなるわけではないとわかっていても、思わずボヤいてしまいます。4月後半に入り、バングラデシュの一番暑い時期に突入です。とくにここ数日はダッカの最高気温が人間の体温と同じぐらいまで上がり、日に5-6時間の停電が続き、仕事を終えて家に帰るともう汗だくです。

ダッカ事務所にはIPSという大型バッテリー装置があり、停電してもしばらくはこれで最低限の電気は使えるのですが、この3日間のように午後2時間半とか3時間連続して停電してしまうと、IPSも切れてしまいます。蛍光灯が消え、かろうじてパソコンだけがついている薄暗い部屋で暑さにあえぎながら仕事をしていると、水槽の上に口を出してぱくぱくしている魚になったような気がします(実際息苦しいし)。毎日この状態の中、集中力を持続させるのはなかなか困難...。でも事務所の電気をまかなえるような発電機(ジェネレーター)は値段も高いし、毎日使うとガソリン代がすごいことになるだろうし、とりあえずは耐えて頑張るしかない、という状況です。

しかし新聞報道によるとバングラデシュにはもうあと1か月分しか石油燃料の備蓄がないそうで、政府は緊急ファンドからの支出を決めたりして石油確保に奔走しているようです。なんだかもうギリギリの自転車操業、という感じ。まだ夏は長いのに今からそんな状態でどうなるんだろ。

わが事務所や私の家のある地域では今のところ水の問題はありませんが、ダッカ市内の多くの地域で水道の水も来なくなり、電気はないわ、水は出ないわで大変です。このような状態の中、下痢も広がっており、ダッカにある国際下痢研究所(通称:下痢研)付属病院に4月1日~18日の間に入院した人は7千人だとか。しかしこれも悲しいかな毎年この時期には同じように繰り返される出来事です。(去年かおととしの今頃のブログにはたぶん似たようなことが書いてあるでしょう)

日本では今頃風薫る5月、爽やかな新緑の季節なんだろうなあ...。は~(ため息)。夏は嫌いじゃないのだけれどダッカで迎える4度目の夏、これまで以上にしんどいような気が。これは年齢のせいか、それとも駐在最終年にして片付かない課題が頭上に重たく積みかさなってるせいなのか。

この間、コルカタとダッカを結ぶ汽車(モイトリー・エクスプレス)がやっと走り出したり、イスラム原理主義者たちが政府の女性政策に反対して国立モスク近辺でデモを繰り返し、警官隊と衝突したり...とバングラ情勢についていろいろ書くべき出来事はあるのですが、暑くて脳みそが働かないのでまた今度。


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2008年03月23日

事務所の運転手採用試験

ダッカ事務所には車が2台あり、運転手として勤務するスタッフも2名必要なのですが、最近ひとりが辞めたため、昨日(土曜日)の朝、採用試験をしました。試験の内容は簡単な読み書きと計算、面接、そして運転テストです。

応募者6人を総務担当者と一緒に面接しました。こちらからの質問内容としては、これまでの経歴、最長どれぐらい長距離運転をしたことがあるか、事故を起こしたらどう対応するか、車のメンテナンスはどれぐらいの頻度でやるべきか、運転中眠くなったらどうするか、などなど。

これまで事故を起こしたり、ぶつけられたりしたことはありますか?という質問に対し、皆「ありません、インシャッラー」などと答えるのですが、この国で何年も運転手をしててまったく事故がないわけないだろー、と思います。

ハイウェイの中央線を大きく越えて追い越しをしながら、真正面から迫ってくる対向車。車がびゅんびゅん走っている道を平気で渡る歩行者。同じ道路に入り乱れる車とリキシャとオート三輪。ぎりぎりまで車間距離を詰めて走るのがフツーで、日本並みに車間距離を開けていたらどんどん割り込まれてしまう。信号待ちのとき物乞いを装っていきなり近づいてきてミラーに飛びつきはがして持ち去る奴もいる。突然のスコールや冬場の深い霧。アスファルトがクレーターのようにはがれたひどいでこぼこ道...。いやー、この国で車を運転するというのは大変なことだと思います。(ちなみに私はペーパードライバー。ここで運転するなんて考えられません。)

事故についての質問をしていたら、ある候補者が「チッタゴンからの帰り道でニワトリを轢いてしまったことがあります。ニワトリが不規則な動きをしたので避けられなかったんです」と告白したのには思わず笑ってしまいました。(でもニワトリであっても轢いてしまったらきっとすごくイヤーな気分ですよね。)

また、読み書き計算で点数が最低だった候補者に、「8年生までいったのになんでそんなにできないの」と聞いたら、「8年生のときに父が亡くなり、勉強が続けられなくなってその後車の修理工を経て運転の仕事をはじめました。ずっと家族のために働いてきたので勉強はすっかり忘れてしまって...」としょんぼり話されてなんだかかわいそうになってしまいました(その候補者は残念ながら不採用)。

結局候補者は2人に絞りましたが、事務所のまわりを1周するだけの運転テストでは違いがぜんぜんわからないので、来週の土曜日、長距離運転テストをすることにしました。シャバールの独立記念塔まで片道一人ずつ運転してもらって往復する、という計画。行きと帰りはコインでも投げて決めてもらおうかな。

このテストをクリアした一人が晴れてシャプラニールダッカ事務所の新スタッフになります。ドライバーはスタッフや出張者、時にはお客さまの命を預かることになるので慎重に選ばないと。最終候補のお2人さん、テスト中緊張のあまり事故らないでね~。


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2008年02月09日

お札にうるさくなったインド人

すっかりブログをご無沙汰してしまいました。1月から2月にかけては、各パートナー団体と次年度の活動について計画や予算を詰めていく1年で一番忙しい時期なんですが、この1ヶ月ほどは、それにサイクロン復興支援の検討やインド出張なども重なった結果、2週間続けて働いて1日休み、また2週間ぶっ続けで仕事する、というペースでした。今週末は久々の休みでやや脱力気味です...。

さて、インド出張というのは1月末から1週間ほどコルカタへ行っていたのですが、今回なんじゃこりゃ、と思ったのは、コルカタの人々がやたらとお札にうるさくなっていたこと。端がほんの5mm程度切れた500ルピー札が、ゲストハウスでもレストランでも受け取ってもらえません。500ルピー札や1000ルピー札の高額紙幣ならまだわかりますが、真ん中に折れ目がついてそこが少し黒ずんだ20ルピー札さえ、タクシー運転手に拒否される。これはいったいなんなんでしょう。いつからこうなったの??

私がニューデリーに住んでいた98年から2001年ごろは、こんなじゃなかった、という記憶があります。その頃、1000ルピー札は発行されたばかりでほとんど出回っておらず、500ルピー札は「大きすぎて使いにくいから」という別な理由で拒否されることがよくありました。100ルピー札は、ガンジーの絵柄の新札と、アショカ王の獅子柱頭の絵柄の旧札がほぼ半々ぐらいに出回っていて、銀行でお金を下ろすと、新札の場合は紙の帯で束ねられた札束が出てきたけれど、旧札の場合は大きなホチキス2つぐらいでガチガチに留められていて、それを外すのにとても骨が折れ、札束の真ん中からお札を2つに分けて持って力づくで引き剥がさなければならず、その結果100ルピーの旧札の透かしのあたりにはたいてい大穴があいていたものです。お札に数字などがメモされていることも多く、「大事なお金なのにいったいなんちゅう扱いをする人たちだろう」と思っていたものです。

しかし、今やインドの人々は、高額小額にかかわらず受け取ったお金を1枚1枚舐めるようにチェックし、高額紙幣は必ず目の前にかざしてニセ札でないか確認し、わずかでも端が欠けたり汚れたりしていたら受け取らない。そういうお札が自分のところへ来るのを避けようと、相手に押し付け合う様はまるでババ抜き。これも経済成長と関係があるのかしら。でもちょっと極端すぎないか?

バングラデシュに帰ってきたら、使い込まれて煮しめたようになり、絵柄も判然としない2ルピー札が立派に通用していて、ちょっとほっとしました。


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2008年01月11日

サプライズ花束

ダッカ事務所では毎朝9時から朝のミーティングを行い、その日の予定や仕事の進捗状況などをシェアします。昨日の朝、いつものように2階の会議室に上がっていったら、いつも私が座る席の前のテーブルの上に、赤い薔薇や色とりどりのグラジオラスが入った大きな花束が置いてありました。

おおっ!と驚いていたら、後ろから上がってきたスタッフたちがみんなで、「アパ、お誕生日おめでとう!」
私の誕生日、覚えていてくれたんだね。

こういうところ、ダッカ事務所のスタッフたちは本当に心優しい。誰かが事務所を去るとき、新しい人が入ったときの歓送・歓迎会に何をしようか?何をあげようか?といったことも、みんなかなり気合を入れて考えます。本人に気づかれないようにこそこそとお金を集めて。小嶋駐在員が帰国するときのお別れ会も、イショルゴンジで買って連れて帰ってきた山羊を事務所の庭でさばき、事務所の料理スタッフに山羊カレーをつくってもらってみんなで食べる、というすごいものでした。(日本じゃちょっと考えられませんね)

私の誕生日のサプライズ花束のことも、前日からみんな相談していたそうだけど、まったく気づかなかった。みんなどうもありがとう。スタッフ全員の署名入りのカードもうれしかったです。

私も皆の気持ちに応えるべく、会議のため来ていたPAPRIのスタッフ5人を含め、全員にミシュティ(ベンガルのお菓子)とシンガラ(つぶしたジャガイモを小麦粉の皮で包んで揚げたスナック)を振舞いました。

残りあと何ヶ月ぐらいみんなのボスでいられるのかわからないけど、帰国のその日までがんばって一緒にいい仕事したいと思います。


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2008年01月01日

明けましておめでとうございます

みなさま、明けましておめでとうございます。お正月をいかがお過ごしでしょうか?

バングラデシュでは西暦の年末年始はとくに休みではないので、ダッカ事務所も今日は平日、通常どおり朝から仕事をしています。昨年12月中旬から後半にかけて、イスラム教の犠牲祭のイード(Eid-ul-Azha)の休みとクリスマス休みがあったので、10日ほど日本に一時帰国していたのですが、クリスマス・イブには日本を出てダッカに戻ってきました。

昨年、2007年はバングラデシュにとって本当にいろいろあった1年でした。軍をバックにした選挙管理内閣が大物汚職政治家を片っ端から逮捕したり、ダッカ大学から波及した政府への抗議行動で外出禁止令が出たりと、政治的にもいろいろありましたが、自然災害の多い年でもありました。年のはじめの寒波、2度の洪水、そして11月半ばの大型サイクロンの襲撃では多くの犠牲者が出、被災した人たちは今も厳しい状況におかれています。

シャプラニールダッカ事務所も昨年度の後半はサイクロン被災者の救援活動で目まぐるしい日々を過ごしました。おかげさまで予想を超える額のご寄付が集まったので、救援と復興支援活動は今後も引き続き実施していきます。第1弾から第3弾までの救援活動はほぼ完了し、今は次なる支援活動について現地パートナー団体と共に鋭意検討しているところです。

また、ダッカ事務所では昨年9月に内山新駐在員が赴任、昨年末には小嶋駐在員が2年5ヶ月の任期を終えて家族とともに帰国しました。プログラム・オフィサーも男性オフィサー1人(ロシドゥル・バリ)が去り、女性オフィサー1人(ウンメ・ハビバ)が新しく入ったので、前よりだいぶ女性が多くなりました。

私も2005年5月に赴任してからあっという間に2年7ヶ月が経ちました。今年は(たぶん)駐在最後の年になります。やらなければならないことはたくさんありますが、残りの時間、ひとつひとつしっかりやっていきたいと思います。

シャプラニールの会員・支援者のみなさま、このブログをいつも読んでくださる皆さま、コメントをくださる皆さま、昨年はどうもありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


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2007年10月23日

イード明け

長らくご無沙汰しました。イード休み中、日本にちょいと一時帰国し、昨日ダッカに戻ってきました。10日休みがあっても飛行機での行き帰りに時間がかかるので、日本での休暇は正味1週間といったところ。短い時間ではありましたが、さわやかな日本の秋の気候と秋の味覚を満喫しました。夫を置いて単身赴任の身、せめて休みで帰ったときぐらいは家族優先に...とあまり友人たちとも連絡をとれなかったので、「あんた帰ってたんなら連絡ぐらいしなさいよ」とお叱りを受けそうですが、お許しを。だって1週間てほんとにあっという間なんですもん。

昨日ダッカに戻っての私の第一声は「げー、まだこんな暑いのー」で、家に着くなり靴といっしょに靴下を脱ぎ捨てて室内履きの草履に履き替え、Tシャツの上にはおっていた長袖シャツを脱ぎ捨て、エアコンのスイッチを入れたわけなんですが、今朝起きて窓を開けてみたら、「あ、やっぱりこれでもだいぶ涼しくなったんだな」とわかりました。今日わが事務所ではエアコンも入れず扇風機だけですが、ちょうどいい感じ。3月ごろから続いたダッカの長い夏もようやく終盤にさしかかったようです。

イードの前は断食月だったので、スタッフ皆そろって食堂で昼食をとるのも久しぶり。日本の食べ物はもちろんおいしかったけど、10日ぶりに事務所でベンガル料理を食べるとこれはこれで美味しいわねー、とダールのスープをお代わり。今は食後のお茶を飲みつつこのブログを書いているところです。

12月にまた犠牲祭のイードがあるので、もう12月の頭までスケジュールはぎゅうぎゅう詰め。小嶋駐在員も12月で帰っちゃうし、ほんとにこれでなんとかなるんだろうか。まあでもダッカ事務所はベテランスタッフ揃いなんだし、どんどん彼ら・彼女らにやってもらいましょう。よし、またベンガル料理がんがん食べてよく寝て免疫力つけつつがんばるぞー。


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2007年10月10日

デング・ニールか

このところ、事務所のスタッフやダッカ事務所を訪れた出張者などにデング熱発症者が続発。事務所の管理運営を預かる者としては頭を抱えております。事務所の周辺を見回って水が溜まっているところがないか調べたり、薬をまいたりしていますが、相変わらず蚊はいるし、なかなか有効な手立てがみつかりません。

今日、休日出勤で午後から事務所に出てきた私のスタイルも、暑い中、長袖のサルワール・カミーズに足は靴下にサンダル履き、自宅から日本製の蚊取り線香とライター持参、一人なのに電気代もったいないけど、部屋は締め切ってエアコンを使う、という完全防備体制です。それでもかかるときはかかるんだろうしなあ。

デング熱って軽ければ風邪かな、と思ってやり過ごしてしまう人もいるらしいんですが、普通は高熱が何日も続いて、食事もとれなくなり、とても消耗する病気です。その上、出血性に移行したり、ショック症状が出たり、と重症となると相当大変です。ダッカ事務所の歴代の日本人駐在員およびその家族は、私が把握しているだけでも6人がデング熱にかかりました。7月に出張してきてデング熱にかかった人も合わせれば、実に日本人8人がかかったことになります。このうち、今の事務所に移ってからかかった人は半数の4人ですが、このほかバングラデシュ人スタッフも数人がかかっています。

多い。多すぎる。やっぱり尋常じゃないですね、これは。

自身も最近デング被害にあった小嶋駐在員は、「シャプラニール(睡蓮の家)」じゃなくて「デングニール(デングの家)」に名前変えたほうがいいんじゃないか、などとブラックなジョークを飛ばすし、先日イフタール・パーティをやったときのスタッフのお祈りも「アッラーよ、私たちをお守りください。とくにデング熱の被害から...」というものでした。なんてこった。

デング熱のウイルスを媒介するシマ蚊の卵は乾燥に強くて、乾季にひからびてもそのまま1年生きながらえて来年の雨季に孵化したりするんだそう。なんてしぶとくっていまいましいんでしょう。デング熱にかかって熱を出している人をシマ蚊が刺すと、その体内で、8-9日のうちにデングウイルスは培養され、その蚊がまた人を刺すと感染するのだそうです。刺されたあと発症するまでの潜伏期間は8-9日。私もイード休み中に熱出すかもしれないなあ。

イード休みが明けたら、また殺虫剤大作戦だ。煙くてもそこら中で蚊取り線香を焚かなくては。旅行などでダッカに見える方もお気をつけくださいね。


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2007年08月27日

配給の思い出

わがダッカ事務所のお昼ご飯は、事務所の食堂でみんなで一緒に食べます。昼食時はみんな喋る喋る、食べながらよくこんなに喋るもんだと思うぐらい喋るのですが、そんな中で時々、珍しい話が聞けます。

例えば今日も話に出たのですが、独立戦争前後の混乱の時代の配給の思い出。

スタッフS:昔配給でさあ、大豆油を始めて食べたんだよね。
スタッフD:そうだね、大豆油なんて見たことなかったものな。
S:マスタード油以外の油なんて食えるのかと思ったけど、使ってみたらけっこうおいしくてね。
D:今は大豆油がずいぶん広まったもんだよねえ。
ふじ:その前は大豆油ってなかったの?
S,D:なかったよ。配給で入ったのが最初だったと思うよ。
D:あと椰子油も来たねえ。マレーシアからさ。
S:ああ、あれはあんまりおいしくなかったねえ。
S:あと日本製の布地ねー。シャツ用のさ。
D:券持って並んだよなあ。あの生地もらうのにね。
S:ぼくは子どもだったけど、欲しくておとなと一緒に並んでたらもみくちゃにされてさ。兄貴にしかられたなあ。
ふじ:それって、出来合いのシャツとかじゃなくて布地だったの?
S:そうそう。でもすごく品はいいものだったよ。みんな日本製の布地がほしくて殺到したんだよ。

こんな話をふむふむと聞きながら、いつもお昼を食べています。同じ話をよく繰り返すスタッフもいて、内心、「その話はもう何度も聞いたよ...」と思うこともありますが、貴重な体験をしてると思います。

昔の学校の教科書の話なんかも面白いんですよね。べつの機会に書きます。


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2007年07月28日

5つ星ホテルで出会った「地元」の人

気がついたら1週間以上ご無沙汰してしまいました。7月中旬からフィールド出張が相次いだのと、23日から中田新代表、坂口事務局長、白幡職員が日本から出張して来て、連日喧々諤々の会議をやっているためです。

わたくし先日点滴を打った後、一度は回復したかと思いきや、その後あらためて風邪を引きなおし、咳が止まらず声もすっかりハスキー、まるでボリウッド女優のラニ・ムケルジーのよう。(これはわかる人だけわかってください)。そういう状態で毎日会議だと、ますます治りません(泣)。病院に行くヒマもなし。バングラデシュの週末にあたる金曜も土曜も終日会議。そんなわけでとてもブログを書く余裕がなかったんです。

なんでこんなにしつこく会議をやっているかというと、今年新たなシャプラニールの5ヵ年計画を策定し、それに合わせて現状分析とか国別戦略をどうするか、とか、海外活動実施に必要なガイドラインやパートナーシップ・ポリシーの整備とか、英語版を作ってスタッフやパートナーとシェアするとか、そういったことをエイッとまとめてやろうとしているからです。毎日頭を絞ってとってもしんどいのですが、こういうものが十分できてないと現場の人間(つまり私たち)は余計辛くなると思えば、この機に一気にがんばらねばなりません。

私はこの会議のあと、8月上旬から10日ほど一時帰国の予定なのですが、もう絞りカスのようなヘロヘロ状態で日本に帰ることになりそうです。もっともこの作業は今回だけではとても終わらず、今年いっぱいは会議→宿題→会議→宿題の繰り返しになるでしょう。

さて、今日書きたかったのはそういうグチではなくてべつのことです。夕方、会議のあと、出張者たちと晩御飯を食べに外に出るついでに、ダッカに新しくできたばかりの5つ星ホテル、ウェスティン・ホテルをのぞきに言ったときのこと。ロビーできょろきょろしていると、いかにも高級ホテルのマネジャーらしい、制服をぴしっと着こなした貫禄あるバングラデシュ人男性が私たちに声をかけてきました。彼に、初めて見に来たんだけどここはどんなレストランがあるの?と聞くと15日前にオープンしたばかりという素敵なビュッフェ(お寿司もある!)のあるレストランを案内してくれました。美味しそうだねえ、今度来るね、と言うと「ぜひぜひ」と名刺をくれました。肩書きをみるとDirector of Sales and Marketing、かなりエライ人みたいです。

で、彼に私たちの仕事を聞かれ、シャプラニールってNGOで働いてるんですよ、と答えたら、「おー、シャプラニール。よく知ってますよ」と言うんです。なんで?と聞いたら、「だって有名でしょ」だって。そんなに有名とは思えないので、彼の出身地を聞いてみたところ、ノルシンディ県のナラヤンプールだと。シャプラニールが長く活動してきた地域の、まさしく「地元の人」だったのでした。元シャプラニールの地域活動センターで、今は独立してノルシンディ県で活動するローカルNGOとなったPAPRIの代表、バセッドを知っているかと聞いたら、「知らないわけないでしょ」とのこと。

彼がどんな経緯で5つ星ホテルのマネジャーレベルの仕事をするにいたったのか、彼の実家がどんな家なのかは聞きませんでしたが、スマートな制服のホテルマンがいきなり身近な「うちの地域の人」に変わった瞬間でした。

こういうことがたまにあります。ダッカの空港のイミグレーションで仕事を聞かれ、シャプラニールの名前を出すと、あー私は○○の出身なんでよく知ってますよ、昔あそこでスタッフの交通事故がありましたねえ、などと言われてびっくりしたり。

活動地域はごく限られているとはいえ、35年も活動してきたのだから、その間になんらかの形でシャプラニールと袖すり合った人は相当な数になるはず。そういう人と、ふと思わぬところで出会うと、ちょっと嬉しくなります。中にはシャプラニールと聞いてよい思い出を持たない人もいるでしょうけどね(笑)


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2007年07月14日

ココロに効いた点滴

先週、コルカタ出張からダッカに戻った数日後にまた熱を出し、ややこしい感染症だったらマズイ、と思い、仕事を休んで自宅近くの「山形ダッカ友好病院」を訪ねました。院長のエクラスール・ラーマン先生は、日本の山形大学医学部卒で日本語も堪能です。ご専門は外科ですが、この地でウイルス性の下痢や熱、肝炎、腸チフス、デング熱などで先生のお世話になった日本人は数えきれないほどでしょう。

私は先生を訪ねる前に、「パラシタモル」という、ここではどこでも手に入る熱さましの薬を自分で勝手に飲んでいたため、ほとんど熱は下がっていましたが、血液検査や尿検査をしてもらうことにし、その日は自宅で休みました。翌朝結果を聞きに行ったところ、腸チフスやデング熱ではなかったけれど、熱や下痢の原因になる細菌がみつかったとのこと。血圧も非常に低く、血中の成分もいろいろ足りないということで、点滴をしましょう、ということになりました。

もう熱も下がってるし、たいしたことなさそうなのに点滴!そんな大げさな、ポカリスエットでも飲んでおけば十分では、とも思ったのですが、先生は点滴をした上、水やジュースも飲め飲め、とおっしゃいます。とにかく水分をたくさんとって、細菌を洗い流さないとダメ。そうやって毎日水をがんがん飲んで1週間たっても細菌が出ていかなかったら抗生物質を使いましょう、というのです。

検査の結果を聞きに行った日、私はくたくたに疲れてはいましたが、もう熱はなかったしそのまま仕事に行くつもりでした。最初の先生の話では昼休みごろまでには点滴は終わるはずでしたが、予定より長引いた2本目の点滴が終わった後、先生はさらにもう一本入れましょう、とおっしゃいます。結局観念して事務所に電話し、点滴を打ちながら病室でテレビを見たり、時代小説を読んだりして丸1日を過ごしました。

その翌々日が今日なのですが、夕方になって自分がとても元気になっていることに気がつきました。昨日から今日の昼ごろまではまだヘナヘナして気力が出なかったのですが、どうやら完全回復しました。点滴そのものよりも、点滴を打つ、という理由で丸一日追加で完全に休んだことがとても重要だったようです。

信州で地域医療に取り組む医師の色平哲郎先生が、2004年度の文芸春秋のベストエッセイ集にも選ばれた『ケア、人間として人間の世話をすること』というエッセイの中で、こんなエピソードを紹介されていました。

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村人はじつによく働く。

夏、命綱である高原野菜の収穫期ともなれば、午前2時ころから畑に出て、
夜の八時、九時まで猛烈な労働をする。

心身ともくたくたになった農家の人が、たまに「先生、点滴打ってくんねぇかな」
と診療所に来る。

生物学的には、5%のブドウ糖溶液、あるいは0.9%の生理食塩水500cc
の点滴は、カロリー計算すれば大したエネルギー補給にならない。

市販のアルカリイオン水を飲めばいいとの見方もある。

山村に赴任したての頃、点滴を打つべきかどうか逡巡していた私に
大先輩の清水茂文医師(前・佐久病院院長)は「村人の気持ちを察しなさい。
点滴は必要なのだよ」と言われた。

点滴を打ってみて、その意味が理解できた。

顔と顔の安心感は、ウラを返せば互いを監視しあい、共同体内の緊張を高める
ことにもなる。

農繁期、疲労を理由に休んでいると「サボり」と後ろ指をさされる。

しかし精根尽き果てたら労働が続けられない。

その一歩手前で村人は診療所に来て、「合法的に」1、2時間、静かに横たわり、
点滴を受ける。

それは、とても貴重な時間なのだ。

成分分析では推し量れない効果をもたらす。

打ち終わると晴れ晴れとした表情で帰っていく、、、。


(『ケア、人間として人間の世話をすること』 by色平哲郎医師 より)

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私はそれほど猛烈な労働をしているわけでもないし、休んだからとて「サボリ」と後ろ指さされることもないので、倒れる直前まで肉体を酷使するこの村人とは比べるべくもありません。でも、バングラデシュの地で実力もないのに事務所長の看板など背負い、自分よりNGOでのキャリアの長い部下たちに囲まれていると、せめて休みをとらずに働くことで実力不足の埋め合わせをしなければ、と思ってしまい、出張などで休日出勤が続いても代休をとることはしませんでした。それで知らず知らずのうち疲れがたまっていたのかもしれません。

1日かけて打ってもらった3本の点滴、いささかおおげさな感はありましたが、おかげで思う存分休息することができました。ラーマン先生はそこまで考えて点滴を打っていきなさい、と言われたのかどうかわかりません。でも、本当に有難い判断でした。

先生ありがとうございました。点滴、たいそう効きました。またなんとかがんばります。


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2007年07月02日

憎きウイルス

ここのところ、事務所のコンピューターが次々にトロイの木馬ウイルスにやられ、要らないファイルが増産されたり、ドライブが開かなくなったり、散々でした。

ついにあらゆるファイルを緊急移動させ、ウィンドウズを入れなおした結果、ドキュメントファイルは全部無事なものの、ウェブのソフトライブラリーからダウンロードしていたいくつかのソフトウェアが初期化されたり消えてしまい、いろいろとセッティングをやり直さなければならないハメに。

で、午前中いっぱいそれでつぶれました。締め切りすぎの原稿は書けてないし、明日の午後からインド出張だしで、き~時間がないよ~、とあせっていたのですが、そういうときほどこういうことって起こるんですね。

でも、なんとか通常の仕事ができるような状況に復活できてよかった...。
コンピューターウイルスで困るのは世界中いずこも同じ、こういうときにささっとコンピューターをいじって対処できるような人が引っ張りだこなのもいずこも同じです。もちろんバングラデシュでも。

わが事務所で以前からこういう時のヘルプを頼んでいるパソコンのメンテ会社の代表のセリムくんはあちこちで引っ張りだこなものだから、まだ若い青年なのに偉くなってしまって、最近なかなか本人が来てくれません。今回の仕事をやってくれたのは二番手の人。それ以外の人はどうもまだイマイチです。

セリムくん、アナタの会社にもっとデキル人を入れてね、お願い。頼りにしてるんだから。


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2007年06月22日

小さな来客

先週の木曜日のこと。勤務時間中だというのに、事務所のスタッフが順番に出たり入ったりしています。
「どうしたのあなたたち。落ち着かないねえ」と聞いてみると...
「アパ、門の前で男の子が歌ってるの。その歌がすごく上手いんだよ。」とスタッフ。

どれどれ、と私も外に出てみると...

少年たち.jpg事務所の向かい側の建築資材の山の上に、少年が二人腰掛けていました。ひとりはルンギ1枚をたくし上げて短パン状にして着ただけ、もうひとりはシャツとジャージのズボンをはいていますが、このズボンは片足が長ズボン、片足が短パン、という状態になっています。

ルンギの子のほうが朗々と歌を歌っており、近所の人や向かいの建築現場で作業中の人たちやらが耳を傾けていました。

「最初、ドブの掃除をさせてください、と言ってきたんだけど、子どもにそんな危ない仕事をさせるわけにいかない、といったら、じゃあ歌いますといって歌いだしたんだよ。それがあんまり上手いんで感心してしまって、みんなでちょっとずつ小銭をあげたわけ」とスタッフたち。

どこから来た子なのか、なんで歌っているのか、事務所の入り口のところに呼び入れてちょっと聞いてみました。

「どこから来たの?」
「ボラ島」
「そんな遠くから来たの?!」
「うん」

ルンギの子のほうは、ボラ島(バングラデシュ南部のポッダ河の河口にある島)の出身だそう。両親は島にいてここでは叔父さんの家に身を寄せており、いっしょにいる子は従兄弟だということでした。

でも、どうもよく聞いてみると、この子は以前、私たちのパートナー団体のオポロジェヨ・バングラデシュがこの近くでやっているドロップイン・センター(シャプラニールが支援しているプロジェクトとは別のもので、宿泊施設はない)に通っていたらしいのです。子どもの口からはっきり「オポロジェヨ・バングラデシュ」と聞いてびっくりしました。

そこでは勉強もしていたのが、叔父さんに「あそこにいると外国に売られちまうよ」などと脅されて、連れ出されたそう。今は歌を歌ったり掃除をしたりして稼いでは、叔父さんにお金を渡す毎日だというのです。

どうも、この叔父さんという人、歌の上手いこの少年を小遣い稼ぎの道具にしているようです。少年はテレビに出るような歌手になりたいという夢があるそうですが、学校にもいっていないし、毎日歌いすぎて声が枯れ掛けています。

少年たち2.jpg親戚だからといって子どもによくしてくれるとは限りません。子どもを使って稼ぐことしか考えていない人もいます。この子も、ドロップイン・センターに通い続けることができれば、勉強したり他の子どもと遊ぶこともでき、困ったことがあったときには、センターのスタッフに相談することもできたはずなのですが....

ストリートチルドレン支援事業担当のスタッフが、この少年に「もう1回ドロップイン・センターに通ってみたらどうだい?身体も清潔にして、勉強もしないと、将来歌手になれないだろ?」と話すと、神妙な顔で頷きながら聞いていました。

ひとしきり話したあと、少年たちは手を振って去っていきました。この子はしょっちゅうこの辺で歌っているらしいし、スタッフは少年の名前も聞いたので、一度少年がいたドロップイン・センターに連絡してみると話していましたが、子どもがセンターに行きたくとも叔父さんが納得しなければ阻止されてしまうかもしれません。

この子が歌っていた歌の内容は私にはわかりませんでしたが、スタッフの話によると、母親への想いを歌ったものばかりだったそう。
ボラ島にいる少年の母は今どんな気持ちでいるのでしょう。


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