シャプラニール=市民による海外協力の会
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シャプラニールについて

藤岡ダッカ事務所長のブログ1998年から3年弱インドに住んだのをきっかけに南アジアとの縁ができ、引き寄せられるようにシャプラニールへ…。そして2005年5月からダッカへやってきました。最近の趣味は、そぞろ歩きを楽しむダッカ市民に混じり、サルワール・カミーズにスニーカーを履いて夕方の公園でウォーキングすること。バングラデシュの村や都市で今起こりつつある変化をなるべくコマメにお伝えしていきたいと思っています。どうぞよろしく。

特定非営利活動法人
シャプラニール=
市民による海外協力の会(地図・住所
〒169-8611
東京都新宿区西早稲田2-3-1
早稲田奉仕園内
TEL:03-3202-7863
FAX:03-3202-4593
メールでのお問い合わせ

 

 
 

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2006年10月31日

 石の無い国の投石は?

28日から続いていた野党連合によるダッカ市の囲い込みが、昨夜から3日まで中断されることになり、とりあえず自由に動けるようになったのでちょっとほっとしています。3日以降どうなるかまだわかりませんが、地方で足止めを食っていたスタッフ2人も今日ダッカに帰ってきました。やれやれお疲れ様。

聞くところによると、イード休み中、コックスバザールなどの観光地で過ごしていた人は、足止めを食って帰れなくなったために所持金で宿泊費が払いきれなくなり、時計やアクセサリーなどを売ってお金に換えなければならない人が多かったとか。せっかくのお休みにとんだ災難ですね。

今回の騒ぎで、路上でわーっと与野党の支持者や警察が衝突して、投石をしたり長い棒で相手を叩いたり...という物騒なシーンをテレビで何度も見たのですが、あらためて気がついたのは、「そっかバングラデシュには石がないんだよな...」ということ。今さらなんですけど。

ガンジス川はじめ大河の河口にあるバングラデシュは、日本ならそこら中に転がっているような「石ころ」が本当に少ないのです。ほとんどない、といってもいいぐらい。日本では河原に行けば石ころがいくらでもあるものですが、ここの河原はたいてい砂地で、海岸の砂浜とか砂丘のような感じです。

そういう国なので、建築資材に使う砂利もなく、レンガを砕いて使っています。ダッカでもちょっと前までは建築現場の前にしゃがんでレンガをひたすら砕く作業をしている人たちをよくみかけましたが、最近は電動の「レンガ粉砕機」があって、ガリガリと騒音を撒き散らしながらレンガを適当な大きさに砕いています。

で、ですね、暴動のときの投石なんですが、これもやっぱり石じゃなくてレンガを投げているんです。暴動の投石シーンをよく見ると、人々が手にもっているのはレンガのかけら。そしてさらにその後方をよーく見ると、「リキシャにレンガを満載して運んできた人」とか「しゃがみこんで投石用のレンガを砕いている人」とかがいるんですね。みんながレンガを投げるので、暴動の後の道路はレンガの割れカスで赤いんです。

なんかこれもバングラデシュならではの投石シーンだなあ...と思って見てました。(感心している場合ではないんですが...)




投稿者: 藤岡 日 時: 20:25 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月30日

 大統領が選挙管理内閣の長に。

イード休み直後からエスカレートした選挙管理内閣の長(主席顧問、英語でいうとChief Advisor)の人事をめぐる騒動は、大統領が4つの主な党の代表と昨日順次会談したあと、結局自らこのポストに着くという決断をし、昨夜宣誓式を経て正式にカレダ・ジア首相から政権を委譲されました。委譲といっても1月の総選挙で次の政権が決まるまでの約3ヶ月の間だけです。日本の新聞にも出ていたかもしれません。

私はジャーナリストではないしバングラデシュ政治の専門家でもないので、政治のことは普段あまり書かない(書く自信もない)んですけど、バングラデシュに関心のある読者の中には、選挙管理内閣ってなに?大統領って誰?なんでここで大統領が出てくるの??と疑問で頭がいっぱいになってる方もいるかも...と思い、今回の焦点になっている選挙管理内閣選定の仕組みについて、ちょっとだけ説明します。バングラデシュ政治について私よりよくご存じの諸先輩方、補足や訂正があったらコメントしてくださいね。

カレダ・ジア首相は知ってるけど、大統領って誰だっけ?という方もいらっしゃるかもしれません。大統領のイアジウッディン・アハメッド氏は元バングラデシュ・ステート大学の学長で75歳。アメリカのコーネル大学など海外の大学で客員教授を務めたこともある学者です。→大統領のプロフィールはこちら(在日バングラデシュ大使館のHPより)

かつて、エルシャド政権まではバングラデシュの政治権力は大統領に集中していました。しかし、90年にエルシャド政権が民主化運動で倒され、91年に憲法が改正された際、大統領は憲法上の国の長、つまり象徴的・儀礼的な存在となり、実際の政治を執り行う上で最高権限をもつのは首相、ということになりました。そういうわけで、普段あまり大統領が政治の場面に登場することはないのですが、今回注目を集めているのは、選挙管理内閣のトップである主席顧問の任命権が大統領にあるからです。

バングラデシュの憲法は1972年(シャプラニール誕生と同じ年!)に制定されたもので、これまで何度も部分改定されています。総選挙の前に選挙管理内閣がつくられることが決まったのは、1996年の13回目の改定。その後、これまで2回、96年と2001年の選挙のときに、選挙管理内閣が組閣されています。

この選挙管理内閣の主席顧問を決める順番として、憲法には6つのオプションが提示されています。どの場合も、中立公正な人物、というのが前提ですが、優先順に、
1.前最高裁判所長官
2.前々最高裁判所長官
3.最近退官した最高裁判所の控訴部門(訳が正しいかどうかは自信ないです。英語はAppellate Division)の裁判官
4.3より以前に退官した最高裁判所の控訴部門の裁判官
5.その他適格な市民(大統領が主な政治リーダーと相談の上決めることが条件)
6.大統領自身

となっています。大統領は憲法上の長としての位置づけがあり、本来、首相と同じ立場になる選挙管理内閣の長とは兼務しないことが望ましいのでしょうが、適当な候補が見つからなかった場合の最後の手段として自ら選挙管理内閣の長になることが認められているわけです。

今回、テレビニュースをつけると、憲法がどうだ、オプションがどうだと、いろんな憲法学者やコメンテーターが出てきては議論していたのですが、それというのはこの大統領自身が選挙管理内閣の長になる意志を表明したのが、ちょっと早かったからです。1の前最高裁判所長官がおととい辞退を表明した人なのですが、2にあたる人はすでに死亡しており、3、4のオプションとして、いろいろな候補者の名前が以前からあがっていました。しかし、なかなか本当に中立な人というのはいないもので、与野党の推す候補が一致せず、国中大揉めの事態に至ってしまったわけです。憲法上は大統領自らがこのポストに着く前に、まだ他の候補に打診する余地があったのですが、大統領としては国の混乱を見てか、政治的プレッシャーがあってか、早々に自分がこのポストにつくことで事態を収拾した、という形です。

与党のBNP側は大統領の就任に満足していますが、野党アワミ連盟側は満足せず、かといってストレートに反対もできず、今は27日から始めたダッカ市囲い込みなどの抵抗運動をゆるゆると続けながら、大統領の出方を伺っている、という状況です。選挙管理内閣の長、つまり大統領は15日以内にほかの10人の選挙管理内閣顧問を決定することになっていて、その結果如何では、また野党が反発して、次なる抵抗運動を始めることもあり得ます。

ダッカと地方都市の間の道路はまだ封鎖状態にあって、ダッカ市内の車もまばら。イード休みで帰省したわが事務所のスタッフも、うち2人がまだ帰省先から戻ってこれずにいます。とりあえず早く道路封鎖は解いてくれー、早くうちのスタッフを返しておくれよー、と言いたいところです。

追記:ついさっき、帰省先で足止めを食っていたスタッフの一人から、明日の朝ダッカに戻れそう、という電話がありました。よかったよかった。(...ってまだどんでん返しもあり得るけど)




投稿者: 藤岡 日 時: 19:43 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月28日

 選挙管理内閣への政権移譲成らず...どうなるバングラデシュ?

イード休み中、バングラデシュを離れていたので、また更新が止まっていました。このブログを覗いてくださった方、すみません。一般庶民が楽しみにしていたイードのお休みが明けたばかりというのに、バングラデシュは騒乱状態です。

ほぼ1週間ぶりにダッカの空港に降り立ったら、事務所の運転手のシポンと雑用係のトゥトゥールが、やや緊迫した面持ちで待っていました。今日はカレダ・ジア率いるBNP内閣から選挙管理内閣へ政権移譲されるはずの日で、ある程度揉めることはわかっていたし、飛行機の中で一緒になったバングラデシュ人の知人から、「昨日からダッカのあちこちで暴動が起こってるらしい」と聞いて「迎えの車は来れないかもな...」と覚悟していたのですが、やっぱりダッカは荒れている模様。

「アパ、昨日からあちこちで暴動があって何人か死んだんだよ。選挙管理内閣の長になるはずだった人が病気で担えないってことで、政権移譲ができなかったんだ。今日は車もほとんど走ってないよ」とトゥトゥール。へ?病気?どうなっちゃったんだろ。

「車で来るのはリスクがあるからやめときました。ちょっと大変ですけどタクシーかCNGを拾いましょう」とシポン。しかし空港に止まっていたタクシーの相場は足止めを食う人々の群れを前にどんどんつり上がり、普段は120タカもあればモハマドプールまで行くところ、どの車も1,000タカ以下では行かない、と言い出す始末。

結局空港から少し歩いてCNG(天然ガスで走るオート三輪)を拾い、ちょっと窮屈だけどスーツケースを座席の後ろの隙間に載せて、トゥトゥール、シポンと3人で乗り込み、自宅へ向かいました。このCNGも250タカという破格の料金でやっと行くことを承知したもの。空港から近い高級住宅地のグルシャン、ボナニの入り口あたりまでは車もちらほら走っていましたが、その先へ行くと本当に全然車が走っていません。路上はCNGとリキシャ、たまにタクシーが走るだけ。ホルタル(ゼネスト)の日ですら多少は車が走っているのに。

無事家に帰り着き、テレビニュースを見ると、手に手にこん棒やクリケットのバットを持った男たちが路上にバリケードを築いたり、石を投げたり、タイヤを燃やしたりしている映像が映り、ダッカ市内のあちこちからレポーターが暴動の様子を実況中継で伝えています。これまでも選挙を控えてしばしば暴動はあったので、全く珍しい映像ではないものの、今回はかなり規模が大きく荒れ具合もひどい。やれやれ、これから選挙まで、どうなるんだろう?

バングラデシュでは来年早々に5年に1度の総選挙が予定されており、本当なら今日から選挙実施のための非政党選挙管理内閣が正式に任命されることになっていました。この選挙管理内閣というのは現職内閣が職権を乱用して選挙に干渉したり、投票結果を操作することを防ぐために、1996年の憲法改正により導入された制度です。選挙管理内閣は前最高裁判所長官を長(主席顧問)とし、中立公正に選挙を行うことになっているのですが、この主席顧問の人事をめぐって与党のバングラデシュ民族主義党(BNP)と野党のアワミ連盟が揉めていました。アワミ連盟はこの元長官はBNP寄りで中立でない、と反発。最高裁判所の長官の定年は以前は65歳だったのですが、BNP政権が急に憲法を変えて定年を67歳にしたりしたことも、不透明だと非難を浴びていました。

選挙管理内閣のトップ人事をめぐる与党と野党の話し合いは任命式の前日になってもついに決着がつかず、与党は野党の反対を押し切って前最高裁長官を主席顧問に任命しようとし、野党が抗議の座り込みと交通封鎖で迎え打つことになっていました。そんな中、前長官本人が、「病気」を理由に主席顧問のポストに着くことを自ら拒んでしまったため、益々混乱に拍車がかかってしまったわけです。

ニュースでは前長官の邸宅も時々映っていましたが、本人は顔を見せず、家族は病気だと言い張るばかりでひっそり。こういう場合の次の候補を誰にするかについてもBNPとアワミ連盟は別々のことを主張しています。BNPに締め付けられてきた全国規模のNGO、プロシカの代表や大学教授などからなるグループが最高裁判所法曹協会(the Supreme Court Bar Association)の代表宛に適切な主席顧問の人選を依頼する文書を出すなど、事態収拾のための努力は各方面でなされてはいるようですが、今日の状況ではどこへどう落ち着くのだか見当がつきません。

つい先だってノーベル平和賞を受賞したユヌス教授にこの選挙管理内閣主席顧問をやってほしい、という声も上がっていましたが、ユヌス教授自身は「公正な選挙候補者を選ぼうというキャンペーンをやっている私は中立たりえないから」と否定。「どうしても必要となったら、選挙管理内閣の長をやるよりは新党をつくるよ」と言い置いて韓国・中国・日本へと旅立ち、30日まで日本にいらっしゃるはず。

この時期、ユヌスさんがバングラデシュをちょっと離れるというのは、たまたまかもしれないけど正解だったなあ、と思います。でも帰国されるなりまた取り囲まれて、事態収拾のために立ち上がってくれ、と頼み込まれてしまうかもしれませんね。

明日のダッカの状況はどうなるかちょっと心配です。暴動の中心になっていた地域の近くに住むスタッフは明日事務所に出て来れないかも。

しばらくはダッカ市内の移動も、地方出張も、ままならない日が続きそうな感じです。

追記:夕方のニュースを見たら、ダッカのみならずチッタゴン、ラッシャヒ、クルナなどなど、バングラデシュ各地で荒れ模様。これまでの暴動とは規模も荒れ具合も比べものにならず、これはしばらく大変だ...とため息。シャプラニールとオポロジェヨ・バングラデシュが運営するストリート・チルドレンのためのドロップイン・センターがあるダッカ南部のジャットラバリ付近も地域の与党勢力・野党勢力のかなり激しい衝突や放火があったようで、子どもたちが巻き込まれていないか心配です。明日の朝は、各パートナー団体に電話して情報収集するところから仕事を始めることになりそうです。




投稿者: 藤岡 日 時: 18:56 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月24日

 バングラデシュの新たな課題

シャプラニールは3年ごとに組織としての「中期ビジョン」をつくり、それに基づいていろいろな計画を立て、活動しています。現行の中期ビジョンは今年度で終わるので、その評価と、来年度からの3年間の新たな中期ビジョンづくりのための話し合いが今進んでいる最中。ダッカ事務所でもその一環として現地スタッフの意見を聞くべく、模造紙とカード、マジックなどを用意して、簡単なワークショップを行いました。

これまで実施してきた農村での活動、都市での子ども支援の活動などのほかに、今バングラデシュで取り組むべき課題にどんなことがある?ということを自由に出してもらいました。

複数のスタッフがあげたのは、「高齢者問題」。この課題をあげたスタッフのひとり、プログラム・オフィサーのサイフルが言うには、「バングラデシュもだんだん大家族制が崩れて、核家族化してきた。これは都市に限らず、農村もその傾向がある。この国は健康保険もないし、高齢者のための社会的なセキュリティ・ネットもないし、お年寄りを大事にしようという意識自体が薄れてきているから、これからこの問題はどんどん深刻になると思う」とのこと。
このテーマは実は現行の中期ビジョンにも注目するテーマとしてあがっていたけれど、あまり活動の中で触れることができなかった部分です。

「環境問題」をあげたのはプログラム・オフィサーのバリ。彼はもともと環境を壊さない持続的な農業のことがやりたくてNGOスタッフになったという人。環境問題といっても広いけど、とくに何に注目すべきだと思う?と聞いてみると、「水の汚染やバングラデシュで売られている食品に含まれる有害な添加物などについて、人々の意識を喚起すること」だそう。もうひとりのプログラム・オフィサー、ポリモールも口をそろえて、「アパ、数年前だったら有機農業でつくった野菜でも高かったら人は買わなかった。でもここ2~3年で、かなりダッカの人たちは健康志向が強くなっている。今なら高くても有機野菜を買う人はたくさんいると思う」とのこと。ふーむ、たくさん、てどれぐらいかなあ。そのうちダッカのスーパーにもそういう有機野菜コーナーができてくるかしら。

「若者にひろがる売買春の問題」をあげたのは今年入ったばかりの若い女性スタッフのイルシャト。「最近、いわゆるプロのセックスワーカー以外にも、普通の若者たちにも売買春に関わっている子たちがいる。大学の女子寮でも、ブローカーみたいなことをしている子がいて、学費に困った女の子などに、そういう仕事を内緒で手配している。その広がり方はかなり危険な勢い。若者たちはHIV/AIDSや性病について実際的な知識は何もないままそういうことをしている。正しい知識を伝えないと。」うーん、大学の女子寮でもそんなことが起こっているというのは認識外でびっくり。

こういった「新しい問題」としてあげられたものにシャプラニールとしてどんな風に取り組んでいけるのか、いけないのか、というのを現実問題として考えるのはこれからの話なのですが、どうもこういう「新しい問題」の形が日本の問題に似てきたなあ、ということを実感します。前からあったけれど目を向けられなかったものももちろんあるのでしょうけれど。

高齢者問題にしろ、環境問題にしろ、若者の売買春の問題にしろ、日本のNPOの経験をバングラデシュのNGOとシェアして一緒に考えていくようなことも今後できたらいいなあ、それこそ「市民による海外協力」の醍醐味なんじゃないかな、と個人的には思っています。




投稿者: 藤岡 日 時: 10:11 | | コメ ント (1) | トラッ クバック (0)

2006年10月17日

 かき入れ時

断食明けのムスリムの大祭、イードが1週間後にせまってきました。この時期は日本のお正月のようなもので田舎に帰る人も多いので、わがダッカ事務所も前後週末合わせて9日間の連休となります。イードの前には皆田舎に持っていくお土産や、自分や家族の新しい服などの買い物をするので、道路やお店の混雑も今週がピーク。

イード前のこの時期、とくにかき入れ時を迎える商売にはこんなものがあります。

①仕立て屋さん
 新しい服の仕立てで大忙し。引き受けた仕立て物はすべてイード前に仕上げなければならないので、どこの仕立て屋も今は夜なべで必死で仕事をしています。私がちょっと前に頼んだ仕立物を「急がなくてもいいよ」と言ったら、仕立て屋の青年はすがるような目で「イードの後でもいいでしょうか?」と聞いてきました。相当仕事がたまってるんだろうなあ。

②床屋さん
 ベンガル人は床屋さんのことを「セルーン」と呼んでいます。要は「サロン」ですね。このセルーンも今はイード前に髪を整えてパリッとしよう、という人たちで混んでいます。この時期は料金もちょっと高くなるのだとか。

③カード屋さん
 イードのときには「イード・ムバーラク」と書いたグリーティング・カードをやりとりしたり、贈り物にカードを添えたりする人が多いため、イード前のこの時期はカードを売るお店もかき入れ時です。道端にカードの露店も出ます。

④ブティック
 ダッカにはサリーやサルワール・カミーズといった女性用の民族衣装を売るブティックがいろいろあります。安上がりなのはこういうところでデザインのアイディアを盗み、自分で生地を買って仕立て屋でつくることですが、ある程度お金のある人はブティックでのお買い物をエンジョイ。どのブティックもイードの時には「今年のイードファッション」と称して新しいデザインを発表します。

わが事務所に今年入った新人で、高級住宅街のダンモンディに家がある「お嬢」がいるのですが、彼女は、「イードのときにブティックを見てまわって気に入った服を買いたいけど、交通渋滞がひどくて何件も見るのは大変。だから先に雑誌で目星をつけてからお店に行くの」と言って、昼休みにファッション雑誌を見せてくれました。なるほどダッカのお嬢はこういう雑誌を参考にしてお買い物するのね。

イード休みに入ると、皆が一斉に帰省するので、バスも電車もフェリーも乗客満載でよろよろ状態になります。この時期は乗りすぎたバスがパンクしてひっくり返ったり、フェリーが沈没したり、という事故も度々起こります。ダッカのスタッフたち、皆無事に帰省して元気に戻ってきてもらいたいものです。

 




投稿者: 藤岡 日 時: 23:40 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月15日

 今日の新聞

10月14日朝刊.jpg新聞広告.jpg

今朝の新聞の一面、こんな感じでした。(左)中面もいろんな企業が「おめでとう」の広告でユヌス教授の顔だらけ。ピザハットと最近バングラデシュに登場したばかりのケンタッキーまで...(右)

とにかくバングラデシュにとっては誇らしいことです。

最初にうまいアイディアを考えて実行した人はやっぱりエライ。
うまいアイディアはほっといてもみんなが真似をして広がっていきますしね。
「普及」しようと苦心しなくても...。




投稿者: 藤岡 日 時: 03:20 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月13日

 ユヌス氏とグラミン・バンクのノーベル賞受賞

P1010589.jpg夕方CNNをつけたら、ムハマド・ユヌス氏と彼の創設したグラミン・バンクのノーベル平和賞受賞が決定した、というニュースが飛び込んできました。バングラデシュのテレビはこういうときにパッとニュース速報が出るとか、特別番組に切り替わるなどということはないので、定時ニュースの時間にならないと、いつもどおりドラマとかクリケットをやっています。大ニュースなのにね、とほほ。

もっともずいぶん前からユヌス氏は何度もノーベル賞候補になって、今年こそは...という報道もあったから、バングラデシュ人はみんなそれほどびっくりしないでしょうけど。何はともあれ、ユヌスさん、おめでとうございます。

私はユヌス氏とお会いしたことは一度しかありませんが、シャプラニール自体は代表理事はじめかなり以前からのおつきあいがあります。冒頭の写真は彼の自伝(英語版)の表紙ですが、この写真そのままの、「顔に力のある」方で、笑みをたやさず冗談を交えつつエピソード満載に語るその話術は、人を逸らすことがありません。NGOのリーダーには「こういう人を惹きつける表現力」が必要なんだよなあ、と納得。

もっとも、ユヌス氏ご自身は、「グラミン・バンクはNGOじゃない。損を出さずにサステイナブルなビジネスを通して社会を変革する組織だ」とおっしゃっていて、確かにいまやグラミン・バンクはマイクロ・クレジットのみならず、繊維産業、通信産業、エネルギー産業などなど様々な事業を行っているバングラデシュ随一のコングロマリットといっていい状態。(グラミンのHPで、Grameen Family of Enterprisesというページを見てみてください。)ちなみに今私が使っている携帯も、Grameen Phoneのものです。

私がお会いしたときはちょうどサッカーのワールドカップが盛り上がってバングラデシュ中が各国の旗だらけになっていた頃で、ユヌス氏が「ワールドカップがもうちょっと後にあればなあ、これからやろうと思っている『モンガ(*注)をなくそうキャンペーン』で貧しい女性たちが縫った旗を売るという手があったんだがなあ」とつぶやいていらしたのが印象的でした。元々経済学者ですが、いつもこんなユニークなアイディアを考え続けているビジネス・センスのある人だからこそ、グラミン・バンクをここまでにしたのでしょう。

(*注)モンガ=農作業が少なくなくなる時期に他人の農地で働く農作業労働者が収入を得る手段を失い、何日も食事ができないような飢餓状態になること

1983年にユヌス氏がグラミン・バンクを創設し、マイクロクレジット(無担保で小規模な資金を貧しい人に貸し付け、少しずつ返済してもらうシステム)を開始して成功して以来、バングラデシュ中の多くのNGOがこのシステムを取り入れ、いまや全国どこにいってもマイクロクレジットを行うNGOの看板が立ち、どんな田舎でもこのシステムを知らない人がないほど広がっています。

女性ショミティ.jpgシャプラニールは最初は皆が飛びついたこのシステムの導入にかなり慎重で、小規模な資金を村人に融資する際は、従来どおりショミティというグループに対して、共同の投資のため・共同管理・共同返済ということでお金を貸していましたが、個人単位で借りたいという住民のニーズ、グループ単位で貸すと、それを投資したもの(灌漑ポンプ、家畜など)からメンバーが被る利益にどうしても差が出てしまったり、お金の管理で問題が生じやすいこと、一括貸付・一括返済は貸す側にとってのリスクが大きいこと、などの理由から、今は農村の3つのパートナー団体すべてが主に女性のショミティメンバーを対象としたマイクロクレジットを行っています。貯金やローンの返済分を集めるのはショミティのミーティングの時にフィールド・スタッフが行いますが、貸すのも返すのもメンバー個人単位。同じショミティの中にも「私は2千タカ借りて山羊を飼うの」という人もいれば、「私は今度は5千タカ借りて小さなお店をやるわ」という人もあり、「私は今のところ貯金だけしてローンはやめとく」という人もいる、という状況です。

写真=女性ショミティのミーティングで貯金やローン返済のお金を集める農村パートナー団体のスタッフ

バングラデシュにはそれまで行っていた他のプログラムを全部やめてしまってマイクロクレジットだけに絞ったり、最初からマイクロクレジットだけをやる団体が非常に多くなり、団体間の競争が激しくなっています。そうなってくると、貧しい人の自立のためのマイクロクレジットなのか、貸す側が儲けることが最優先なのか、わからないような団体が増えているのも事実。当初はグループのメンバーになって3ヶ月はローンを出さない、とか、貯金が一定額貯まるまではローンを出さない、というNGOが多かったのに、最近はメンバーになって翌週にはローンを貸すところが増えています。

最初に貸すローンの上限額も上がる一方。借りる人にとっては有難いでしょうが、返済できないリスクは高くなります。ある団体で借りたローンが返せず、ほかの団体で借りたお金で返す、という多重債務状態に置かれる人も出てきています。また、貸す側にとっては多く貸して利子も多くついてきたほうが儲かるわけですから、貧しい人のためのマイクロクレジットと言いながら、貸し付け対象者の基準がどんどん緩くなり、実際には最貧困層には見向きもせず、ある程度お金のある農民にしか貸さない団体も多くなっています。

広い場所に家が点在し、交通も不便な大河の中洲(チョール)のような場所は、マイクロクレジットをやるNGOが入ったものの、うまくいかなくて引き上げてしまった、というケースもよく聞きます。人口密度が高くて交通が便利なところのほうが、ローンを貸したり返済したりする対象者へのアクセスが効率よくできるわけです。チョールみたいなところはその反対でマイクロクレジットには非効率。こういう地域では教育や保健衛生にも遅れが目立ち、NGOの活動のニーズは高いのに、NGOがあまり入ろうとしないのはそういう理由もあります。

一歩間違えると本来の目的から外れかねず、いろいろ議論のあるマイクロクレジットですが、貧しい人たちが自分の力で貧困から脱出するために大きなチャンスとなるのは事実。しかしバングラデシュのように団体間の競争が激しくなり、悪徳団体も現れて玉石混交状態となると、その中で生き残っていくのはNGOにとっても大変ですし、村の貧しい人たちも、地域によっては複数のNGOからアプローチされ、その中から安全なNGOを自分で「選ぶ」必要が出てきます。政府が法律で厳しく規制をかけるという「マイクロクレジット規制法案」もだいぶ前から話題に上っていますが、どうなりますやら。

シャプラニールから独立した農村パートナー団体が、地域のニーズに即した活動を持続的に行っていける組織になるには、マイクロクレジットをどう扱っていくかもひとつの大きな鍵。経済分野が不勉強な私にとってはどちらかというと苦手な分野ですが、もっとマイクロクレジットについて勉強し、バングラデシュ内のマイクロクレジットの動向にも気を配り続けねば...と思っています。

夜のニュースを見たら、バングラデシュのテレビでもさすがに大々的に報道していました。報道陣にもみくちゃにされながらもユヌス氏、すごくうれしそう。バングラデシュ人として初の受賞とあって、大臣級の政治家も駆けつけて祝福。明日の朝刊にも大きく出ることでしょう。




投稿者: 藤岡 日 時: 23:38 | | コメ ント (5) | トラッ クバック (0)
2006年10月13日

 ムスリムの「法事」

昨日パートナー団体のPAPRIで、先月爆発事故で亡くなった調理担当のスタッフ2人の追悼宗教行事に参加してきました。亡くなってからほぼ1ヶ月。本来はもう少し前にやるものだったらしいのですが、聖なる月である断食月にしたほうが意義深くなるということで、昨日行うことになったものです。

2人が亡くなったときは本当に辛くて、PAPRIのスタッフたちも相当落ち込んでいましたが、2人のお葬式のあとPAPRIの代表のバセッドが中心となって遺族とも誠意をもって補償の話し合いをし、通常の活動を続ける一方で事故の後処理や追悼行事をひとつずつこなしながら、少しずつ気持ちの上でも立ち直ろうとしています。

PAPRIのナラヤンプール事務所に行くと、中庭に大きなテントが張られ、一面に敷物が敷かれていました。前にモスクのイマーム(宗教指導者)や村の長老や有力者らしき人たち、亡くなったスタッフの男性の遺族がこちらを向いて座り、あとの男性は向き合う形で前を向いて座り、女性たちは横に別に用意された席に座りました。男性たちは金曜日の礼拝のときなどにかぶる白いキャップをかぶり、女性たちはサリーの端やサルワール・カミーズのオロナと呼ばれるスカーフを頭にかぶっています。私もオロナを頭にかぶって女性の席の一番前に座りました。

追悼の行事は夕方4時半すぎから始まりました。参加者は全部で200人ぐらいはいたでしょうか。前の中央に座るイマームの声に合わせ、皆が預言者ムハンマドの名前が入ったお祈りの言葉を節をつけて繰り返し歌うのですが、それは哀調をおびたメロディーで、男性も女性も声を合わせて静かに歌う様はとても厳かで美しいものでした。

数十分ほど歌のようなお祈りが続いたあと、一度立ち上がって皆で祈りを捧げ、その後イマームが「アッラーよ、事故で死んだ二人をあなたのそばに行かせてください」というような顛末を交えたお祈りをし、日も沈みかけた5時半ごろ、全員に紙袋に入れたイフタール(断食明けの簡単な食事)と水が配られました。

5時40分ごろ、アザーンが聞こえると、皆でイフタールを食べ、その後男性だけが中庭で全員西のメッカの方角を向いて祈りを捧げ、追悼集会が終わりました。

集会が終わったあと、PAPRIの代表やマネジャーたちと少し話をしましたが、皆少し肩の荷が下りた感じで、日本でいうと「これで四十九日も終わりましたね...」という雰囲気でした。 

ダッカ事務所は去年から今年前半にかけてはスタッフの結婚や出産などおめでた続きだったのですが、9月から10月にかけては、このPAPRIのスタッフの死亡事故があったり、ダッカ事務所のヒンドゥーのプログラム・オフィサーのお父さんが亡くなったり、私の義父が亡くなったりと、なんだか周囲でお葬式続きでした。

辛い時期ではあったのですが、バングラデシュのムスリムやヒンドゥーのお葬式や「法事」について見聞きしたり、日本のお葬式や法事のことをダッカのスタッフに説明したりする中で、興味深い発見もいろいろありました。

辛気臭い話ばかり続くのもなんですが、ヒンドゥーのスタッフに聞いた、彼の出身地の村でのお父さんの葬儀にまつわる話も興味深いものなのでそのうちご紹介します。




投稿者: 藤岡 日 時: 20:37 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月11日

 元大臣のビジネス自慢

前回書いたような理由で、先日急遽帰国しなければならなかったため、赴任後初めてダッカ・バンコク間のビジネス・クラスに乗りました。NGOスタッフの給料では厳しい出費ですが、エコノミーがまったくとれなかったのです。

しかし、お陰で(?)バンコクからダッカへの飛行機で、普段ならまず隣り合わない人の隣になりました。バングラデシュの国会議員、かつて大臣職も経験した人物です。

最初、自分の席に座ろうと思ったら、隣に離陸直前だというのに携帯電話をかけ続けているベンガル人男性がいて、嫌だなあ、こういうタイプの人って絶対話しかけてきてダッカまでずっとつかまっちゃうんだよなあ...と思っていたのです。

その後彼はちゃんと電話の電源を切っていましたが、しばらくすると案の定「あなたどこの会社の人?」と英語で話しかけてきました。「私は会社じゃなくてNGOで仕事してます」というと「どんなNGO?」かいつまんで「農村開発とかストリートチルドレン支援をやっているNGOです」と言うと「ふーん」とあんまり関心なさそう。私が読んでいた文庫本に目を戻そうとすると、「私はこういう者だよ」と写真入りの名刺をくれました。

写真の下には、名前と“Member, Bangladesh Parliament”の肩書きが。「あら国会議員なんですかー」と言うと、「そうだよ、前は大臣もやったんだよ」とおっしゃいます。私が「はあ」などと言っていると、「中国にはビジネスでしょっちゅう行ってるんだよ。ほとんど毎週だね。だから中国の主な会社はほとんど知ってるよ。○○とか△△とか...。今回も2つ契約をまとめてきたところでね。」とアピール。ははあ、この人、私のことを中国人だと思ってるんだな。「すみません、私は今日名刺を持っていないので」と言うと、爽やかな笑顔で、「いや、いいんだよ、ははは。事務所の住所はそこに書いてあるからいつでも来なさい」だって。私があまり反応を示さないので、そこで会話は終わり、彼もヘラルド・トリビューン紙を取り出して、何やらアンダーラインを引いていました。

私はしげしげと名刺と本人の横顔を見比べながら考えていました。国会議員が毎週ビジネスで中国に行ってるのかー。それでどうやって国会議員の仕事をするんだ?以前大臣だったなんて、その利権でずいぶん儲けてたんだろうな。ほんの数年前に出来た火力発電所が操業開始後わずか数ヶ月で故障して止まっちゃって、建設を請け負った中国の会社がメンテナンスを全然契約どおりにやらないのに、政府はまたその会社と別の大きな契約を結ぼうとしている、っていつか新聞に出てたけど、こういう人が絡んでいるのかしら。現役の国会議員がビジネスのために自ら海外を飛びまわってるなんて、議員の規定はいったいどうなってるんだろ?

翌日事務所に出て、ダッカ事務所のスタッフに、「きのう飛行機でこんな人と隣になったんだよ」と写真入り名刺を見せたら、「ああアパ、この人は有名な億万長者なんだよ。前に大臣だったとき、国会議員の赤いパスポートで、自分のビジネスの国際会議のためにシンガポールに行っちゃって、問題になったことがあるんだよ」そうか。そうだったのかー。「彼はね、元は貧しかったらしいよ。苦学して大学を出てすぐビジネスを始めたんだけど、バングラデシュが独立してすぐの頃、経営者がパキスタンに脱出してしまって国のものになった工場を、国が二束三文で売ったときがあってね。彼はその工場のひとつをなけなしの金をはたいて借金して買ったんだよ。でもその工場には色々貴重な設備があったそうでね。それを元手にビジネスを始めて、今の地位まで登りつめたんだよ。慈善事業もいろいろやってるよ。彼の出身地ではね、洪水になっても政府の救援は要らないんだ。彼が全部やっちゃうからね。車なんて何台持ってるか自分でもわからないらしいよ。彼はBNPにもアワミにも献金してるから、どっちの党からも支持されてる敵なしの議員なんだよ」

ほえー、そうだったのかー。と聞きながらまた湧いてくる疑問。「でもさ、その人は国会議員なわけでしょう。前は大臣だったわけでしょ。そういう人が現役議員のままビジネスで儲けるってのはどうなわけ?そういうことを規制する規定は当然あるでしょ」「あるよ、それはもちろん。でも実際はあってないようなものだね。この人は議員の中じゃ比較的正直で、まあ基本的にはイイ人だよ。」

え?いいのそんなこと言っちゃって。この前、今のバングラデシュで一番必要なイシューはなんだと思う?ってみんなに聞いたら、口を揃えて「グッド・ガバナンス」だって言ったじゃないか。現役の国会議員なのに毎週自分のビジネスで中国に行くような人を「基本的にイイ人」なんて言っちゃっていいわけ?確かにあの人、笑顔も爽やかで感じは悪くなかったし、「食わせ者の越後屋」みたいな悪人面ではなかったよ。慈善事業も色々やってるのかもしれない。でも、議員とか大臣としての利権を使って儲けてるわけだよ?そりゃあ、甘すぎるんじゃないの?それに、そういう人がいい加減な会社と契約して発電所が止まっちゃうから、ますます停電がひどくなるわけでしょ?こんなに毎日何時間も停電してたら、彼は海外との電気ビジネスでうはうは儲かるかもしれないけど、バングラデシュ国内で商売してる人は仕事にならないじゃないか?

あとからネットで調べてみたら、この元大臣、中国企業との怪しげな発電所建設契約を、バングラデシュ側受注企業の社長としていくつも結んでいた「疑惑の人」だったのでした。(まあ、でも知らない外人の私にまで自分でアピールしてるんだから疑惑も何もないわな。)

あの時、私は前夜バンコクに着いた飛行機が暴風雨で5時間遅れて寝ていなかったので、元大臣に突っ込みを入れる元気はなかったですが、「元大臣、今のこのダッカのひどい停電をどう思いますか?」ぐらいは聞いてみるべきだったかもしれません。

そう書いている今も停電。最近、夜も入れると毎日4~5回は停電し、独立以来最悪といわれるダッカの電気状況です。よくなる見込みは当面なし。あちこちで「電気をよこせ」のデモや暴動も発生しています。なんとかしてくれ~、金儲けに忙しい議員の先生方よ!あんたらのせいだぞ!と叫びたくなります。

よそ様の国のことばかりは言えないかもしれませんが、バングラデシュでは所属政党などによらず、公の職についている人がやっていいことと悪いことの境目がかなりいい加減。最近援助国の政府や国際機関などのドナーがしきりに「グッド・ガバナンス」を唱えていますが、倫理に外れることをしても悪いとも思っていない、もしかしたら自分は善人だと思っているかもしれない人たちが溢れているこの社会、どうしたらよくなるのでしょう。

とても遠回りかもしれないし、時間がかかるかもしれないけれど、それは最終的には、「ノーと言える市民社会が育つこと」じゃないかと私は思います。良識と倫理観のある中間階層が育ち、自分たちの国は自分たちでよくしよう、という気概と発言力をもつ人が増えてくること。国民のほとんどが少なくとも日本でいうところの中学校卒業ぐらいまでの教育をちゃんと受けられるようになること。高等教育を受けた学生たちが、ドロドロした学内の政治派閥に巻き込まれて消耗して終わるだけでなく、その中から真に国の行く末を憂い、清潔な政治を志す人が出てくること。海外で教育を受けたり、技術を学んだ人たちが帰ってきて投資を始め、それを阻むような非効率で不公平なシステムにどんどん注文をつけて変えていくこと。メディアの役割も重要です。

いろいろ挙げればキリがないですが、「市民社会」を支える人々が育つには、やはり貧困の撲滅と教育だと思います。一部の金持ちばかりがどんどん儲け、貧しい人が置いてけぼりを食う社会を変えるためには、「底辺にいる人たちの底上げを図りながら、同時に良識ある中間層を育てていくこと」が重要なのではないかと思っています。




投稿者: 藤岡 日 時: 01:07 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年10月09日

 義父を見送って思うこと

まただいぶ間が空いてしまいました。実は私事ですが義父が亡くなりまして、急遽1週間ほど一時帰国しておりました。葬儀を終えて昨日帰ってきたところです。以下、私的なことですが、これも海外駐在員の生活のひとコマ。いつかどなたかの参考になることももしかしたらあるかもしれません。

バングラデシュに駐在が決まったとき、一番心配だったことは、駐在中に身内が亡くなあり、二度と会えなくなることでした。こんなことは20代前半に最初の海外赴任を経験した頃には考えもしなかったことですが、自分も不惑の年齢となると親の世代も年をとってくるわけで、いざというとき間に合うかどうか、というのは切実な問題です。残念ながらその心配は当たってしまい、駐在後間もなく祖母が亡くなり、そして今回は義父と、二度日本へ駆けつける結果となりました。

義父は高知の出身で、船乗りでした。現役時代は神戸の港を拠点としていたので、夫は神戸で生まれ育っていますが、引退してから郷里の高知に戻り、末期がんとわかってからも高知の病院に入院していました。昨年、余命はあと1年ぐらいと言われ、覚悟はしていたのですが、危篤の知らせを受けたときはどうしよう、と思いました。それがちょうど4連休の前の木曜日の晩だったからです。

こちらは金曜日が日本でいうところの日曜日。役所はもちろんあらゆる会社や事務所、旅行代理店も金曜日は休みです。しかも断食月とヒンドゥーのドゥルガー・プジャが重なった連休の週末。知らせを受けた翌日の金曜日、祈る思いで日ごろ世話になっている旅行代理店の社長の携帯に電話をかけ、事情を説明すると、私のために事務所を開けてチケットを取ってくれました。ダッカから日本への直行便はありません。あるのはマレーシア経由、香港経由、シンガポール経由、バンコク経由の4つの便。夜に出る先の二つは金曜日は便がなく、残る2つもほぼ満席で、やっととれた土曜の昼発のバンコク経由のビジネスクラスに飛び乗り、成田から羽田、そして高知へ向かいました。乗り継ぎや待ち合わせの時間があったので、ダッカの自宅から高知の病院まで27時間ぐらいかかりました。

病院に着くと義父はもう瞼を閉じることもできなくなり、酸素マスクをして荒い息をしていました。前夜からその状態だということでした。この義父と私は誕生日が同じで、元気だった頃は土佐の地酒をつぎ合って一緒に酔っ払ったりしたものでした。赴任して最初の年のイード休みに帰ったときはまだ元気だったのに、1年足らずの間にやせ衰えて、すっかり小さくなっていました。

夫が「手を握って声かけてやって」というので、義父の枕元に座り、もう言葉も話せない、瞬きもできない義父の冷たくなりかけた手を握り、少し話しかけたあとはとにかく義父の呼吸に合わせて息をしていました。そうするうちにだんだん義父の手が温かくなり、脈を打っているのが自分の指か義父の指かわからないような瞬間があり、それからだんだん呼吸が間遠になっていき、50分後には亡くなりました。

最期の最期はずっと義父を看病してきた義妹と交代しましたが、義父と呼吸を合わせていたとき、言葉はもう交わすことはできなかったけれど、何かが通じたと私は信じています。私がそう思いたいだけかもしれないけれど。

呼吸を合わせようと咄嗟に思ったのは、昨年、ストリート・チルドレンの支援活動を行うパートナー団体のスタッフのカウンセリング研修のために、バングラデシュにいらした講師の藤崎亜矢子さんが、「意識のない人ともワークはできるんだよ」と話をされたことを覚えていたからです。彼女はプロセス指向心理学という日本ではまだあまり知られていない新しい心理学をアメリカで学び、実践している方で、彼女のカウンセリング研修は、とても実践的で現場ですぐに役立つと参加者にとても喜ばれた研修でした。

その研修はパートナー団体のオポロジェヨ・バングラデシュで、実際に日々ストリート・チルドレンと接するスタッフたちが、子どもたちの心に寄り添い、子どもたちを傷つけずに心を開かせながら支援していくためにどうしたらよいかを学ぶものだったのですが、とくに印象に残った「ワーク」のひとつは、子どもの動きに自分の動きをシンクロさせる、というものでした。子どもが膝を抱えてうずくまっていれば横で一緒にうずくまり、子どもが足をぶらぶらさせていれば、一緒に足をぶらぶらさせてみなさい、というのです。単純なことのようですが、それをしながら相手と心を合わせていくのは繊細な感性が必要なことだと思います。

研修の合間に亜矢子さんから聞いた話には、私が今までの経験の中でなんとなく感じて実践してきたことと通じることがいくつかありました。例えば偶然のようにみえる出来事の意味を考えること。とくに重要な判断に迷ったとき、いくら悩んでもどうにも答えが出ないとき、私はあれこれ考えることを中断して、ただ感覚を研ぎ澄ませて、「サイン」を待つことにしています。それは私にしかわからないことだけれど、どちらに進めばいいか知らせてくれるサインは必ずやってきます。そのサインを受けて、進む方向を納得したらあとはそこで全力を尽くすだけ。その場所を去るべきときがきたら、やはり何かそれを知らせるサインがあるはず。べつに何の宗教の信者でもないのですが、なぜか私はそう信じながら生きています。

身体が動かない人とも、意識のない人とも、ワークはできる、通じ合うことはできる。そのことを亜矢子さんから聞いたとき、本当にそうなら大きな救いだと思いました。

思いもかけず、思いもよらない場所で、それを実践することになりました。亡くなる直前、義父の手が温かく脈打ち、荒かった呼吸がだんだん静かになっていったあの短いけれど凝縮した時間を、私はずっと忘れないでしょう。

私が死ぬときに私を看取ってくれる人は誰になるのかわからないけれど、その人にはただ手を握って静かに呼吸を合わせてほしい。死ぬときそんな風に誰かがそばにいてくれたらいいなあ、と思います。家族に手を握ってもらって看取られて逝く、そんな死に方が出来る人は実はそう多くはないでしょう。また誰かの死に出会って別の経験をしたら違うことを言い出すかもしれませんが、今はそんな風に思っています。




投稿者: 藤岡 日 時: 02:51 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)
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