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暗殺の家でバングラデシュとSNの歴史を想う

その家は我が家からリキシャで10分足らずのところにあります。ダンモンディ旧32番通り10番地。ダンモンディ・レイクと呼ばれる池に面した住宅街の一角にあるその古い家は、バングラデシュ独立の父、ボンゴ・ボンドゥ(ベンガルの友)と呼ばれた初代大統領、シェイク・ムジブル・ラーマン(ムジブ)が1975年8月15日、軍の青年将校たちによるクーデターのため、近親者たちとともに暗殺された家なのです。

この家、今はボンゴ・ボンドゥ記念館として、暗殺された当時そのままの様子が保存され、一般公開されています。近くにありながら、足を踏み入れたことがなかったのは、このあたりが野党アワミ連盟の本拠地で、反政府集会の会場になったりしていささか物騒な地区のせいもありますが、殺された人たちの怨念のこもっていそうな家を、ふらっとひとりで訪ねようか、という気にならなかったこともあります。

この8月、来客ラッシュに混ざり、私メの夫もようやく休みを取ってバングラデシュにやってきて、このボンゴ・ボンドゥ記念館を見たいというので、8月最後の週末、リキシャに乗って行ってみました。

財布以外の荷物をすべて道路の反対側のブースに預け、ボディチェックをされて中に入ると、ブルーグレーに塗られた古い家の天井でこれまた古いファンがブンブンと回り、独立の頃のモノクロの写真が展示されていました。家は3階建てで、居室は主に2階と3階にあり、ガラス越しにムジブル・ラーマンが独立宣言の放送をした書斎や、寝室、各国の土産らしい人形がたくさん置いてある息子夫婦の部屋、応接間、ムジブの執務室などを見て回れるようになっています。ガラス板でカバーされた壁や天井の血痕。廊下の両側にかかる殺された17人の肖像画。ムジブが殺された階段には、国旗と赤い花、そしてムジブの暗殺の瞬間をやや抽象的に描いた絵が掛けられています。

このとき、国内にいた親族は幼い子どもを含め皆殺しにあいましたが、海外に出ていた二人の娘は難を逃れました。この娘の一人が前首相で野党のアワミ連盟の現党首であるシェイク・ハシナです。(アワミ連盟のウェブサイトには父ムジブに肩を抱かれた若き日のハシナや、このボンゴ・ボンドゥ記念館の階段で祈りを捧げるハシナの写真がアップされたアルバムがあります。興味のある方はどうぞ。)

部屋はどれも簡素で、日本人形がいくつも飾られているのが印象的でした。31年の歳月に、古い家具が色褪せ、家の中全体がセピア色になっているようですが、今でも何か凄惨な空気が漂っているような感じがしました。

31年前の出来事を保存する記念館を、すっかり遠くなった歴史の一部、という感じで見てきたわけですが、考えてみたらこの事件の3年も前に、シャプラニール創設時の先輩たちはバングラデシュに入っていたのでした。当時はダッカに「シャプラの家」と呼ばれ、会の名の由来となった事務所を開き、最初の活動地ポイラ村にも何人かが住み込み、手工芸品協働組合や夜間教室などのプロジェクトを手探りで始めていた頃。ムジブが殺されたクーデターの日、当時のダッカ事務所は大統領邸に近かったので、駐在員は「銃声と大砲の音が聞こえて目が覚めた」と『シャプラニールの熱い風』(めこん)には書かれています。FAXもなく、手書きの文書や録音テープを郵送して、東京とのやりとりをしていたという時代です。

その頃バングラデシュにいた先輩たちは、30数年後にもこの会の活動が続き、バングラデシュでのプロジェクトの裨益者数が2万人を超え、農村の地域事務所が現地NGOとして独立し、駐在員がインターネットのブログなどというものを使って瞬時に写真入りの報告が日本に送れるようになるなど、想像もできなかっただろうな、と思います。

駐在員としてここにいると、日ごろは目先の仕事に追われていますが、ふとした時に、多くの人たちが長い時間をかけてじっくりと培ってきた経験の積み重ねのこと、それに連なって今ここで自分が仕事をしていることに思いを馳せます。そして、今私たちは正しい方を向いて歩いているだろうか?と自問するのです。

昨日、9月1日はシャプラニールの34歳の誕生日でした。
独立直後の混迷の時代にこのバングラデシュに入り活動を始めた先輩方に敬意を表して。


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