シャプラニール=市民による海外協力の会
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シャプラニールについて

藤岡ダッカ事務所長のブログ1998年から3年弱インドに住んだのをきっかけに南アジアとの縁ができ、引き寄せられるようにシャプラニールへ…。そして2005年5月からダッカへやってきました。最近の趣味は、そぞろ歩きを楽しむダッカ市民に混じり、サルワール・カミーズにスニーカーを履いて夕方の公園でウォーキングすること。バングラデシュの村や都市で今起こりつつある変化をなるべくコマメにお伝えしていきたいと思っています。どうぞよろしく。

特定非営利活動法人
シャプラニール=
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2006年09月28日

 【本の紹介】<女中>イメージの家庭文化史

P1010813.jpgダッカじゃまだ「今日も暑いね。雨降らないかねえ」などという挨拶をしていますが、日本では「読書の秋」ですよね?ということで今日は本のご紹介。「<女中>イメージの家庭文化史」清水美知子著(世界思想社)という本です。

ここ数日時代小説ばかり読んで頭が江戸深川べらんめえ調の世界になっていた私。昨夜「こう小説ばっかり読んでちゃあ仕方あるめえ」と思って、ナナメ読みのままだったこの本を読み直したらいやー実に面白かった。

この本は帯にあるとおり、明治時代は<下婢><下女>、その後<女中>、そして<お手伝いさん>と呼ばれるようになった住み込みの家事使用人女性のことを通して、近・現代日本の家庭生活を浮き彫りにした本です。明治から昭和までの新聞や雑誌はじめ膨大な文献から<女中>に関する情報が引用されていて、随所に「へえ、そうだったのか」と唸ったり「これじゃまるで今のバングラデシュと同じじゃないか」と思うような話がいっぱいあるんです。

例えば、明治42年に週刊『婦女新聞』に載ったという「下女と奥様の苦情くらべ」という記事など、去年私たちがダッカで行った調査で使用人として働く少女たちや雇用主から聞いた話ともうまったく同じ。そのまま翻訳したのかと思うぐらい。
孫引きになりますが、この記事の要約として著者が紹介している部分を引用します。

...女中から雇主である奥様(主婦)への苦情を要約すると、①休日や休憩時間など少しも約束通りにしてくれない、②家族の人数などの条件が聞いていたのと違う、③「口に入るものであれば何でもよいのか」というくらいに食事が粗末、④むやみに人を追い使うことばかり考えている、⑤二言目には「のろいのろい」と言う、⑥女中を不正直と決めつけ少しも信用しない、などの声があがった。
 もちろん、女中の態度や行動にまったく問題がなかったわけではない。主婦の側からは①見かけは気が利きそうだが、使ってみると役に立たない②皿を壊したり食物を無駄にするなど不注意で仕方がない、③すぐに嘘をつき信用できない、④用事が多いときにかぎって外出するなど、肝心なときに頼みにならない、⑤面倒を見てやっているのに嬉しそうな顔をせず可愛げがない、といった苦情が寄せられた。(P.39)

もうほんとに同じなんですよねえ、このほとんど全部が。

大正時代に、日本基督教婦人矯風会が女中夜学校をやっていたとか、昭和初期に愛国婦人会が、地方出身の娘が就職先の宛のないまま上京し、淪落の道をたどるのを防ごう、と女中養成所をやっていたというのも興味深い話です。この女中養成所でどんなことをやっていたかというと、

入所した女性たちは1週間の泊まりこみで終日、都会での女中としての心構えと必須事項について、講義と実習を通して学ぶ。-中略- ガス・水道・電気の使い方、基本料理の講義、配膳と後片づけ、銃器の手入れと保存法、ガラスの拭き方、風呂の焚き方、市場での買いだし実習、衣類の手入れと保存法、言葉遣いと電話のかけ方、来客への応対、押し売りへの対処法にいたるまで多岐にわたっている。修了者には「実習証」が授与された。(P.127)

だそうです。昭和4年に「社会立法協会」は東京市およびその近郊の家庭女中6千人を対象にアンケート調査を実施して、その労働状況と「つらく思うこと」「こうして欲しいと思うこと」などを調べたそうで、この結果に基づき、昭和5年に以下のような待遇改善の決議を行ったそうです。(P.132)

一、原則として一日八時間の睡眠時間を確保し、少なくとも一ヶ月一日の割合をもって休日を与ふること
一、少なくとも一日二時間の自由時間を与へ、これを教養に利用することを奨励すること一、一人につき一畳を下らざる採光通風の適当なる女中部屋を供し、十分かつ清潔なる寝具を給すること
一、給金は現金をもって毎月これを支払うこと
一、家族の通常食と同等の食糧を供すること、呼称につき差別的取扱ひを為さざること
一、雇い主の都合により解雇する時は、相当の解雇手当を給すること
一、雇用中の病症に対しては相当療養の処置を講ずること

今のバングラデシュでもこれと同じ決議が必要だと頷いてしまいます。

ほかにも、大正から昭和前期にかけて、朝から晩まで自由もなく雇主に隷属しなければならない女中よりも、時間で給金をもらえる縫製工場の女工のほうが気が楽だと、女工志願者が増え、主婦たちが「女中難」に悩むようになった、という話も今のバングラデシュとよく似ています。

この頃、平塚らいてうが『婦人公論』で、女中がなかなかみつからなくて仕事ができないと嘆き、「これは、最も実際的な家庭問題であり、社会問題であります。」といっていた一方、与謝野晶子は「女中を解放せよ」というエッセイを書いて、「今後の女中は卑屈な奴隷の位置から契約労働の自由職業に移り、女中の個人性が尊重されて、八時間乃至六時間の労働以外には、自己の収容と享楽のために費やす時間を有し、労働の報酬も一日の最低賃金一円を標準とするに至るであらうと思ひます。-中略-之なら女子の職業として一つの安全な職業と云ふことが出来ますが、また一方では家庭で無闇と女中を雇はない事にもなるでせう」(P.84)と述べていたという話には、あっぱれ与謝野晶子、と拍手したい思いでした。本質的なことが見えていた人だったんだなあ。日本社会でこれが実現するのは50年後の話ですからね。

さらに、『婦人之友』の主宰者である羽仁もと子は、創刊当初より衣食住をできるだけ手のかからないように改良して家事を軽減するいっぽうで、主婦が率先して働くとともに家族にも家事を分担させ、女中に頼らない生活をめざすことを提唱していた(P.88)とのこと。当時こういう考え方はきわめて異例だったそうです。

『婦人之友』はさらに、「下婢」や「下女」にかわって使われるようになった「女中」という呼称も差別的な意味合いを感じさせるようになってきたということで、「女中」に代わる言葉を懸賞つきで募集しています。そこで「助婦」「お手伝」「家事婦」の3つが最後に残り、検討を重ねた結果一等に当選したのが「お手伝」だったということです。(P.92)「お手伝いさん」という言葉はこうして生まれたのですね。

何もかも今のバングラデシュの状況とそっくりの昔の日本の「女中」さんの話ですが、これは大きく違うなあ、と思ったことが二点あります。

ひとつは、昔の日本では「教育程度が低い農村の子女」と言ったって、小学校ぐらいは出ているひとがほとんどで、年齢も小学校を出るぐらいの歳にはなっていたということです。バングラデシュの少女たちは、うちの隣のナシマを見てもわかるように小学校すらいっていない子、今まさしく小学校に行かなければならないような年頃の子がたくさんいるのです。

あともう一点は、少女たちを雇う側の女性たち自身による議論がバングラデシュではあまり見られないことです。この二点目のほうは実はあるのだけれど私が拾えていない、という可能性もありますが。

またまた長い文章になってしまいました。でもまだ紹介しきれない面白い話、考えさせられる話がたくさんありますのでぜひこの本、読んでみてください。

こういう本が英語に訳されたら、ダッカやインドで使用人として働く少女や女性たちのプロジェクトを一緒にやっているNGOの人たちにもぜひ読んでもらいたいのになあ、と思います。よい経験も悪い経験も含め、日本の過去の経験がほかの国の問題解決のヒントになることはたくさんあると思います。





投稿者: 藤岡 日 時: 03:04 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月26日

 ラマダンの皮肉

ラマダン(断食月)というのはただ断食をするだけでなく、道徳を守り節制に努め、神様のことを考える月、ということなのですが、この「節制」の部分は皮肉なことにだんだん逆の状態になってきている、と複数のバングラデシュ人ムスリムが自嘲的に言っていました。

日中は断食しているのだけれど、断食明けの食事や夕食がどんどん高カロリーになってきて、この期間はかえって太る、という話です。確かに、夕方6時前の日没の時間にイフタールを食べ、夕食は夕食で9時とか10時に普段より豪華なのを食べ、日が昇る前の朝4時半頃に起き出して断食前の最後の食事を食べ、また寝る...というライフスタイルは、ダイエットの理屈から考えると逆効果になりそうな気も。

断食明けのイフタールは地域によって違うようですが、バングラデシュの場合はどうも揚げ物と甘いものが多いんですよね。あれを食べ過ぎると確かに太りそうです。

毎週火曜日に新聞のおまけについてくる別冊生活情報紙を見ていたら、今回の特集は「低カロリーのイフタール・レシピ」でした。「今年こそはラマダンとダイエットを両立させて、すっきりボディでイードを迎えましょう」みたいなキャッチフレーズの下に、揚げ物をなるべ避け、野菜や果物を多くしたイフタールの作り方が並んでいました。たしか去年もそんな記事があったなあ。

断食明けのイードは皆が新しい服を買って一番おしゃれを楽しむ時期でもあるので、とくに女性はその前に太っちゃうとせっかくのお洒落が台無し、というのもあるんでしょうね。

また、「道徳」という面からみてかなりクエスチョンなのは、この時期にあちこちで行われるイフタール・パーティがかなり政治的に利用されていること。とくに今年は5年に一度の総選挙を控え、政治家たちのイフタール・パーティでは相当なお金が動くだろうという話。

ラマダン中に一度は5つ星ホテルにでも行って、最高級イフタール・パーティはどんなんだか、覗いてみますかね。




投稿者: 藤岡 日 時: 21:36 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月25日

 今日からラマダン

今日から断食月(ラマダン)がスタート。ダッカ事務所の勤務時間も普段の9時~5時から9時~4時と、1時間終わりが早くなり、昼休みも30分短くなります。政府の役所にいたっては昼休みは15分で勤務時間は3時半までだそう。3時半を待たずに帰ってしまう人もいるらしく、午後の道路は早くから渋滞します。

4時過ぎると皆ささっと帰っていきます。お祈りをしたり、断食明けの食事の用意をしたり、買い物をしたり、皆急いで家に帰ってやることがたくさんあるのでしょう。

私も今日は5時に事務所を出ました。こんなに早く帰ったら持て余しちゃうなあ、と思いつつ。
帰り道にはたくさんイフタール(断食明けの食事)の屋台が出ています。おいしそう。市場も買い物する人でいつも以上にごったがえしています。今度そういう写真を載せましょう。

こういう、夕方ムスリムの家族たちが皆家に集って断食明けの食事を楽しむ特別な季節は、一人暮らしが本当につまらなく思えます。

今、17時45分ぐらい。あと10分でイフタールの時間を知らせる夕方のアザーンが聞こえるはず。
家の窓を開けると、イフタールの食事の匂いがし、シューッと圧力鍋の音がしたりして、近所の人たちがいそいそと支度をしている気配があります。テレビを大音量でつけている人もいます。アザーンを聞くためでしょう。(そうでなくてもそこら中のモスクから大きな音で聞こえてきますけど)

そういえばインド・パキスタン北部で大地震があったのは、去年のラマダンが始まってすぐのことでした。聖なる月が始まったばかりのそわそわした気分のときに、あの悲惨な地震は本当にショックでした。あれからもう12回目の新月が巡ってきたのですね。

被災した人たちは今頃どうしているでしょう。

あ、アザーンが響きだしました。




投稿者: 藤岡 日 時: 20:34 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)
2006年09月25日

 隣のナシマ

今日の文章はブログに書くには長すぎますが、書いておきたい本当の話です。隣の家に使用人としてやってきた、小さな少女ナシマのお話です。

                 *  *  *

向かいの家の気さくな夫婦

私が住んでいる家は事務所にほど近いラルマティアというダッカの中流階級地域にある8階建てフラットの最上階にあります。一番上は暑いですが家賃が妥当なのと見晴らしがいいのが気に入っています。このフラットの中では私は唯一の外国人。エレベーターホールを中心に1フロア4世帯が入るフラットで、気さくなベンガル人のこと、皆外国人の私に声をかけてくれたり家に呼んでくれたりするので、同じフロアに住む人は皆顔見知りです。

向かいに住んでいるのは30代半ばの感じのいいベンガル人夫婦。彼らは結婚して間もなく二人でアメリカに渡り、それぞれガソリンスタンドやレストランのウェイトレスとして懸命に働き、ついには夫のほうはチェーンレストランのマネジャーになり、カリフォルニアに自分たちの家を買うまでになりました。しかし働きすぎがたたって二人とも相次いで身体を壊し、家族に説得されて帰ってきた、という若いながら苦労した経験をもつ人たちです。長くアメリカにいたので英語も流暢。夫のほうのナディムのお兄さんは日本で長く働いたことのある人で、日本語ぺらぺら。ナディムも日本に行ったことがあるそうで、初めて彼が銭湯に行ったときの体験談は、彼の妻のハシナと一緒に聞いて笑い転げました。ハシナはインテリアのセンスが抜群で、時々頼まれて家具のコーディネートの仕事をしています。彼女の弟は韓国人の女性と結婚して韓国に住んでいて、先日結婚以来初めて弟夫婦がバングラデシュに来たからと、私を家に呼んで紹介してくれました。二人は「私たちはひとりで外国に来て働いているあなたの苦労がよくわかる。何かあったらいつでもベルを鳴らしてうちに来ていいからね」と言ってくれ、本当に親切な人たちです。

彼らの家では小柄なおとなの女性がお手伝いさんとして働いていました。仕事が一段落ついたときは彼ら夫婦の横に座り込んでテレビを見たりもしていたし、わりと自由にやっている感じでした。それで私も「ベンガル人の中でもナディムやハシナみたいな人たちは子どもを使用人として雇ったりはしないんだろうな」と思っていたのです。

小さな少女がやってきた

しかし、1ヶ月半ぐらい前でしょうか。この家の台所で小さな女の子の姿をみかけるようになりました。あの子は誰だろう、と気にしていたら、ある日この子が台所の窓枠(こちらの家は高層フラットであっても、たいてい全ての窓に泥棒よけのグリルがはまっています)にしがみついて、こちらを見ているのに気がつきました。向かいの家の台所とうちの台所は2~3メートルぐらいの隙間を隔てて向かい合っており、ミラーガラスになった窓を閉めていれば中は見えないのですが、今のような暑い季節は窓を開けているので、お互い台所の半分ぐらいは丸見えです。ただし、窓辺に寄らない限り、向こうにいる人とこちらとがお互い作業をしながら話ができるほどには近くない、そういう微妙な距離です。窓辺でこの子が話したそうにしているので、私も窓に寄っていって声をかけました。

つい最近この家で働くことになったそうで、名前はナシマ。以前いたおとなのお手伝いさんは辞めてしまい、かわりに彼女が雇われたそうです。一張羅みたいな赤い花模様のワンピースを来て、賢そうな目と鈴を振るような声をした可愛い子です。出身地はノルシンディ県だそうで、ノルシンディのどこ?と聞いたら、「チョール(河の中洲)」と言います。「チョールってライプラのあの大きいチョール?」と聞くと「何で知ってるの?!行ったことあるの?」と興奮するナシマ。ライプラのチョールといえば、ノルシンディ県で活動するシャプラニールのパートナー団体のひとつ、PAPRIが今年から活動を始めた場所です。川で隔離され、病院もなく、学校に通う子どもも少なく、貧しく保守的な人々が洪水の被害などに苦労しながら暮らしているところです。ああ、あそこからこういう小さい子がダッカに使用人として来ているんだなあ、と思いました。

ナシマに「歳はいくつ?」と聞いてみると「10歳か12歳か...もしかしたらもう少し上かな。わからない。」と言います。見たところせいぜい12歳ぐらい。学校に行ったことは?と聞くと、残念そうに「行きたかったけどお父さんが行かせてくれなかった」とのこと。どんな仕事をしているの?と聞くと、「料理も洗濯も掃除もぜーんぶだよ!」と言います。あんたそんなにちっちゃいのに全部ひとりでやってるの?と聞くと、「ぜんぶやってるよ。ひとりで。」と胸を張りました。来て1週間目ぐらいで、この頃はまだナシマも張り切っていたのでした。確かに料理をしている後ろ姿を時々見かけると、その手つきやしぐさはテキパキと堂にいっていて、12歳そこそこの子どもとは思えませんでした。

元気をなくしたハイジのように

ナシマのことが気にかかりながら私も忙しくしていて2週間ぐらいたち、ある夜出張から帰ってくるとフラットの屋上で派手な音楽が鳴っています。その日は疲れていて、なんだろうと思いつつ寝てしまいました。翌日休みだったので台所で遅い朝食を作っていると、またナシマが向かいの台所の窓にはりついています。「元気?」と声をかけると、「あんまり元気じゃない」という答え。「昨日うちのサーとマダムの結婚記念日のパーティだったんだよ。屋上でやったの。すごくたくさん人が来て、高そうなプレゼントをたくさんもらってたよ。」と言いながら、ナシマは疲れきった表情です。たぶん彼女も昨日はとても忙しかったんだろう、と思いつつ、そうか昨日屋上で聞こえた音楽は彼らの結婚記念日パーティだったのか。私がいつも出張やら来客でバタバタしてたから、ナディムとハシナとも疎遠になってきちゃったな...と頭の一方で考えていました。

「あなたの家にはブア(お手伝いさん)はいないの?」とナシマが聞くので、「いるよ。でも朝来てお昼過ぎには帰るし、金曜日はお休みなの。土曜日も時々休みだよ。」と言うと、「いいなあ...お休みがあって」とため息をつくナシマ。「お休みないの?」と聞くと「ない」。なんとなく目の光が弱々しくなり、元気がありません。アルプスからフランクフルトに連れて行かれて夢遊病になってしまったハイジみたいだ、と思いました。しばらくとりとめのない話をしていると、ナシマが暗い決意のこもった目をして「私ここ辞める」と言います。「辞めるってどこに行くの?」「どこか別の家」。ちょうどその話をした時、家の呼び鈴が鳴り、ナシマは慌てて「またね」と飛んでいきました。

ついに脱走

あの子が急に飛び出してしまったら危ないなあ、と思いながら、私の仕事のほうでもいろいろあり、休日も家で落ち着く暇のないまま数日が経ちました。ショベ・バーラトの夜には「ハルワ(お菓子)をもらったの」と嬉しそうに食べているのを見たし、時々窓の向こうに姿を見かけていたので、まあ大丈夫みたいだと思っていたら、2日ほど彼女を見かけない日がありました。そのすぐ後、朝ごはんを食べながらうちのお手伝いさんのイラと話していたら、イラが「あのお向かいの子は逃げ出して連れ戻されたのよ」といいます。「えっ?逃げたってどこに?」と聞くと、別の家に行こうとしてモハマドプールに行っていたらしい、といいます。

そういえば以前、私の事務所はモハマドプールだと言ったら、モハマドプールにはおじいちゃんがいて、門番の仕事をしているんだとナシマが言っていました。ナディムのお兄さんの家はモハマドプールだから、たぶんそこで長年ナシマのおじいちゃんが門番をしていて、そのつてで孫娘がナディムとハシナの家に来ることになったのでしょう。
「そうか逃げたか...」と連れ戻されたナシマを哀れに思いながらも、路上で悪い奴に捕まったら本当に危なかった、と一方では少しほっとしました。こういう女の子が町をうろうろしていてかどわかされ、国内やインドの買春宿に売られてしまうということは現実に起こっていることです。

帰ってきたナシマ

イラに脱走の件について聞いた翌日、久しぶりにナシマと窓越しに話をしました。彼女が逃げた話には触れずに「元気?」と聞くと「元気」と言います。あのパーティの翌日に比べるとだいぶ落ち着いた様子。逃げ出したことで少しナシマの待遇も変わったのでしょうか。そうだといいのですが。

それからまた数日たった今日、先ほど窓越しにまた話をしました。「明日からロジャ(断食月)だから大変だよ。夜中に起きてまた料理しなきゃいけないよ。うちのアパたちは買い物、買い物で外に出っぱなし。あー大変。」ナシマはせっせと手を動かしつつ歌うように喋りながら元気なようです。断食月にはイスラム教徒は日の出から日の入りまで食を断ちますが、日の出直前と日の入り直後に特別な料理を食べます。その支度をするのもナシマの役目なのでしょう。

たくましい少女。日本ならまだ小学校6年生か中学1年生ぐらいの歳で、たった一人で他人の家に住み込み、自分の身の回りのことはもちろん雇い主の全ての家事をこなし、学校にも行かず、自由に外にも出られないナシマ。でも信心深いナシマにとって、断食月の準備は思わず張り切ってしまうことのようです。少し前、「この家の人たちはあんまりお祈りしない」と不満そうでしたから。

近いうちに久しぶりに、ナディムとハシナを玄関から訪ねよう、と思います。ナシマのこともきっと話題になるでしょう。外国人の隣人である私が彼らの家庭内のことについて出過ぎたことを言うことはできませんが、彼らのことだから気さくに自分たちからナシマのことを話してくるかもしれません。でも、もしかしたら私がナシマと時々窓越しに話をしていることについて、多少気を悪くしている可能性もないとはいえません。

まあ案ずるより訪ねてみるがよし。お菓子でも持ってドアをノックしてみましょう。

使用人として働く少女のためのプロジェクト

シャプラニールは、現地NGOのフルキをパートナーとして、ナシマのように使用人として働く少女たちのための実験的なプロジェクトをダッカで始めたばかりです。今はダッカ市内の2ヶ所でしか始めておらず、そのうち一つはまだ地域住民と交渉している段階ですが、少女たちが集まれるヘルプ・センターを開き、最低限の読み書きや保健衛生、思春期の身体の変化のことなどについて学び、同世代の少女たちと子どもらしい遊びの時間を持つことができ、さらに技術研修もしてよりよい給料、よりよい仕事で働けることを目指しています。つまり少女たちが少しでも子ども時代を取り戻しつつ、自分に付加価値をつけ、競争力を持ち、より人生の選択肢の幅を広げることができるように、というプロジェクトです。

この子たちを仕事から切り離し、学校に行かせることができればそのほうがいいに決まっていますが、バングラデシュに最低30万人はいるという使用人として働く子どもたちを、全て仕事から切り離して養うことなど、どんなNGOにも現実的なことではありません。すぐに仕事を辞めさせることはできないけれども、それでも少女たちや雇い主、親や地域社会に働きかけて、少しずつ少女たちの状況をよくしていくこと、この子たちはまだ子どもであって、遊んだり学んだりする子ども時代が必要だということを理解する人をこの社会の中に増やしていくことを目指しています。

日本でも貧しい家の子どもは他人の家に住み込みで働きに出された時代がありました。しかし、社会の変化に伴い、だんだんとそんな状況はなくなっていきました。バングラデシュもそうなるための「社会の変化」をどうすれば起こしていけるのか、が今の私たちのテーマです。

ただし、シャプラニールやほかの様々なNGOや国際機関などが努力しても、社会の変化には時間がかかります。そもそもバングラデシュの人たちが「変えよう、変わろう」と思わなければ、本当の変化は起こらないでしょう。

目の前に「プロジェクトの対象」そのものの少女が現れ、「隣の外人のおばさん」として彼女に関わってしまった私は、一個人としてとまどっています。時々彼女の話し相手になりながら、彼女がたくましく自分の人生を切り開いていくことを祈るほかに、私に何ができるのでしょう。

この子も同世代の子と遊ぶ時間が持てたら、学校で学ぶことができたら...と歯がゆく思いながら、隣のナシマの背中を見ています。

追記:夜10時過ぎ、さっきは元気だと思っていたナシマが窓辺で泣いていました。「このうちの人たちは自分では何にもしないで、あれやれ、これやれって言うんだよ。こんなに苦労ばっかりして、悲しいよ、貧乏人は」と言います。言葉のかけようがありませんでした。




投稿者: 藤岡 日 時: 00:22 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月24日

 これって電磁波のせい?

シャプラニールの会員で、医療関係のNGO活動で何度もバングラデシュを訪れているAさんが、帰国直前の木曜日、雨の中ダッカ事務所に寄ってくださいました。いろいろと四方山話をしたのですが、その中で話題になったのは電磁波のこと。日本では「電磁波過敏症」の人が増えているんだそうですね。

電磁波の害がずいぶん前から話題になっていたのは知っていましたが、最近具体的な症状を訴える人が増えていることはよく知りませんでした。日本の話題に乗り遅れている自分を意識して、ウェブサイトで電磁波の害のことをちょっと調べてみました。

電磁波過敏症の症状について見てみたら、あれ?なんか私当てはまるよ、という項目がいくつも。目の痛みやかすみ、肌の乾き、のどの乾き、鼻の調子が悪い、粘膜の異常な渇き、頭がきーんとする、ときどき動悸がする。これ全部当てはまるぞ。とくにノートパソコンに長時間向かっていると(今もそうですが)なんか調子が悪くなるんだよな、と思ってまた調べたら、がーん。デスクトップに比べてノートパソコンの電界はとっても強いんですね。やっぱり電磁波のせいなのかしら。それともただの老化現象?

こういうことって今日本では問題になっているけれど、バングラデシュの一般の人々が電磁波の害のことを知るのなんてずっと後のことになるでしょう。というより、「電磁波」なんて言葉は知らないまま一生を終える人がきっと大半。でも、今はバングラデシュの農村でもそこら中に携帯電話の電波塔がどんどん立てられているので、その近くに住んでいて人知れず偏頭痛に悩んでいる人も実はいるかもしれません。「どこでも携帯が通じるようになってバングラデシュも便利になった」などと喜んでばかりもいられません。

アスベストをふるう女性.jpg
日本でさんざん問題になっているアスベストの害のことだって、バングラデシュの人たちはあまりよく知りません。5月29日のこのブログにもちょっと書きましたが、国際環境NGOのグリーンピースと人権NGOのFIDH、そしてチッタゴンの地元NGOのYPSAが共同で発表した、チッタゴンの船の解体所の写真集を見たら、サリー姿の女性がアスベストの山にしゃがみこんで、竹のふるいでアスベストをふるっていました。再利用するためだとか。愕然としました。

写真=Greenpeace, FIDH, YPSAによる写真集「End of Life Ships-The Human Cost of Breaking Ships」の1ページ。アスベストをふるう女性。

日本でアスベストの除去作業に携わる人は、何千円もする防御服を着て、それも数時間ごとに着替えないといけないので、1日この防御服代だけで万単位のお金がかかるそうです(これはAさんの受け売り)。片や、口さえ覆わず素手でアスベストをふるっているバングラデシュの女性。危険を知ってしまった先進国ではできない仕事を一般庶民の無知をいいことに途上国に安く押し付けている現実。

こういう例はきっとほかにもたくさんあるはずです。日本人にとって危ないことは、他の国の人にとってだってもちろん危ない。とくに情報が届きにくい途上国の人たちに、どうやって危険を知らせ、危険から守っていけばいいのか。そのあたりにも先進国のNGOが率先してやらなければならないことがたくさんありそうです。




投稿者: 藤岡 日 時: 00:32 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月22日

 「TV気象情報」という先進技術

日本の知人から届いたメールに「秋晴れの日が続き、秋刀魚が旬。金木犀も咲き始めました」とありました。秋晴れ、秋刀魚、金木犀。3つともほとんど忘れかけていたボキャブラリーです。メールをくださったのはかつてダッカに住んで仕事をした経験のある方なので、意識して書いてくださったのでしょう。日本の美しい秋の空や金木犀の匂い、秋刀魚の味を思い出しています。

雨の中のリキシャ.jpg

こちらはというと、遅れて来たモンスーン、という感じでこの3日ぐらい雨が降り続き、先ほどようやくあがったところ。ただダッカの感覚でいえばそれほどの「豪雨」でもなく、ビニール風呂敷をかぶってリキシャでなんとか通勤できる程度の雨でした。

ちなみにリキシャは座席の下に必ずビニール風呂敷を入れています。雨が降るとそれを取り出してお客に渡します。幌を出しても膝から下は濡れてしまうので、客はそれを膝の上にかけたり、雨が強いときは座った自分の前に幕のように張って雨の侵入を防ぐわけです。

写真右上=雨の中をゆくリキシャ。乗客はビニール風呂敷をすっぽり被っています。

ダッカはこの程度ですみましたが、ベンガル湾沿岸部はかなりの暴風雨が襲い、今朝の新聞でわかった範囲で、沖に出ていた漁師46人が遺体で発見され、未だ1,500人が海で行方不明、という惨事になりました。この悪天候を知らせるシグナルを政府はちゃんと出したのか、と議論になっているようです。

ベンガル湾に注ぐガンジス河口の大きな島、ハティア島にいる、シャプラニールのユースメンバーの日下部くんがどうしているか気になって、彼の携帯に電話してみました。日下部くんは上智大学の大学院生、ハティア島で活動するDUSというNGOで研究をしています。

cox bazar.jpg

電話に出た日下部くんは「いやー、もう暴風雨がすごくて全然外に出られない状態です」と言っていました。ハティア島やチッタゴン、コックスバザールなどベンガル湾の沿岸部はサイクロンやそれに伴う高潮の被害を受けることが多く、独立直前の1970年のサイクロンでは50万人、史上最大規模といわれた1991年のサイクロンでは14万人が犠牲になっています。

写真上=サイクロン常襲地、コックスバザールの長大な海岸

今回の暴風雨はサイクロンではなく、沿岸部に住む人への被害はそれほどでもなかったようですが、海に出ていたたくさんの漁師が犠牲になりました。そのことを日下部くんに聞くと、「最近海でも魚が極端に獲れなくなって、漁師は皆かなり無理しても海に出ていくようなんです」と言います。川で魚が獲れなくなった話はそこら中でよく聞きますが、海でもそうなのか...。

今回、漁に出た漁師たちは、この悪天候の兆しをどこまで把握していたのでしょう。日下部くんが関わっているNGO、DUS代表のロフィックさんに以前聞いた話では、バングラデシュには悪天候を知らせる緊急シグナルが10段階以上あるそうなのですが、これが細かすぎて一般の人には非常にわかりにくく、ロフィックさんたちは2つか3つでいい、と主張しているそうです。注意報と警報があれば十分、ということでしょうか。

日本で台風が近づいていたり、暴風雨が来そうなとき、テレビで気象情報を定期的にチェックすれば、台風の大きさ、進む方向、進む速さ、いつどこが暴風域に入るか、まで即座にわかります。日本で暮らしているとこれはもう当たり前の感覚ですが、ここでは暴風雨が来ようとサイクロンが来ようと、その情報を逐次チェックするのは容易ではありません。大地震が起こったとしてもそうでしょう。

そもそも大事件があったとしても、こちらのテレビはあまり緊急速報を出したりしません。夜の定時のニュースを待つしかありません。緊急速報を出せるような体制がないんだろうと思います。(以前過激派テロリストの首魁が逮捕されたときは、生中継がありました。前々から情報があって準備ができれば緊急中継もできるのでしょうが...)さらに言えば、テレビがあっても停電すれば見られないし、サイクロンや暴風雨の被害が大きいハティア島やコックスバザールなどの海岸部では、一般庶民はテレビなど持っていないでしょう。持っていてもケーブルテレビに加入していなければ、地上波で映るのは国営バングラデシュ放送のみ。「テレビで気象情報」は実際そのシステムもほとんどないし、一般庶民に届くためのツールとしてはまったく現実的でないのが現状だといえましょう。

coast.jpg

沿岸部で活動するNGOはそれでもなんとか人々に気象情報を伝えようと努力を続けています。ラジオの活用、旗などを使ったシグナルの伝達、日ごろから地域で育てた防災ボランティアを通じた伝達など。私が以前訪ねたコックスバザールのNGO、「COAST」の事務所には、壁に天気図を記入し、サイクロンの進路をマグネットで表示する専用のホワイトボードがありました。ラジオを聴きながらサイクロンの進度を予測し、早め早めに住民に警告を出す、という天気予報の役割までNGOがやらなきゃいけないんだなあ、と思いました。災害常襲地のバングラデシュで奮闘する現地NGOにとって、気象情報に関して先進国の日本には期待もあるようですが、社会の状況が違いすぎるバングラデシュで、日本の技術をそのまま持ってくるのは困難であることもよくわかっているようです。

写真右上=コックスバザールのCOASTの事務所で

大きな災害があってもその場にいる人には情報がなく、何があったかわからない。それは災害時最大の問題のひとつです。ダッカでも日に日に停電がひどくなり、テレビに頼れなくなってきたこの頃。私も日頃からラジオを聞くことを習慣化したほうがいいな、と思っています。

また雨が降り始めました。せっかくの金曜日ですが今日は家に籠もりっきりになりそうです。




投稿者: 藤岡 日 時: 16:56 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月21日

 時代小説に癒される年頃

このところ、いささかヘビーな出来事があって落ち込んでいたり、出張者が来て会議で忙しかったり、自宅のインターネットがつながらなくなったりで、ブログの更新がすっかり滞ってしまいました。見に来てくださった方、すみませんでした。

先週どうにも元気がでなかった私は、休みの日に気がつくと朝から晩までの間にサッポロ一番塩ラーメンに卵を入れたのを食べただけ、といった情けない食生活だったのですが、出張者が来て一緒に夜おいしいものを食べに行ったり、バカ話をして笑ったりしたら元気を取り戻し、やっぱり人間おいしいものを食べることと笑うことが元気の源であるなあ、とあらためてわかった次第です。

エネルギーレベルが下がった私を癒してくれたものがもうひとつあります。それは出張者に持ってきてもらった時代小説。若い頃は親が時代小説を読んでいるのを見ても「何が面白いんだろうなあ」と思ったものですが、最近、しみじみと「時代小説はええなあ。やっぱり小説はこれに限るよ」と思っています。

バングラデシュで読むからこそいいのかもしれません。江戸時代の奉公人の娘がけなげに苦労する話を読むと、農村からダッカに出て来て他人の家で使用人をしている少女たちの境遇と重ねてしまうし、貧しくとも良心をもって懸命に働く庶民が「お上」や「金持ち」の気まぐれに蹂躙されたり、盗賊に襲われて身ぐるみはがれたりするのも、渡し舟で川を行き来したりするのも、なんかこれってここにもあるような...という感じがするのです。

自分が管理職として悩む立場になったせいか、経験を積んだ岡っ引きの親分や剣の達人の言葉などにも「なるほどねえ...」と頷いてしまうし、日本の食べ物がおいそれと手に入らないだけに、おしるこだとか稲荷寿司だとか赤かぶの漬物だとか白魚の椀物だとか、時代小説に出てくる食べ物は実に魅力的です。

たいてい時代小説は文章が簡潔でドロドロしてないのもよいですね。藤沢周平や宮部みゆきの時代小説の、さらりと簡潔な文体は文章修行のためにもよいお手本になります。

まあでも、要は時代小説が面白いと思うような年齢に、私がなったということですかね。




投稿者: 藤岡 日 時: 02:22 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月12日

 満月と雷

先週木曜日の夜、イショルゴンジの出張から帰る車の中から空を見ると、びっくりするほど大きな満月が昇ってくるところでした。満月って下のほうにあるときはなんだか赤く見えますよね。ほとんどピンク色のような大きな月に浮かぶ模様を見ながら、昔の日本人は兎が餅をついていると言ったけど、ベンガル人はどんな風に見ていたのだろう、とぼんやり考えていました。

この大きな月が少しずつ欠けていき、完全な新月になると、その日から断食月が始まります。日の出から日没まで食を断ち、祈りを捧げる、ムスリムにとって聖なる月です。毎年断食月は10日ぐらいずつ前にずれていきます。だんだん暑い時期に断食月がかかってきたため、日没までの時間も長くなり、断食する人たちは辛いでしょう。その月がまた太り、また細って新月になったら、断食明けのお祭り、イードです。こうしてイスラム月は巡っていきます。

金曜日の夜はショベ・バーラトという、これもムスリムにとって特別な夜でした。この夜は亡くなった人の魂の平安を一晩中祈り続ける日なのだそうです。そのためか翌朝はリキシャの数もまばらでした。

一転して今朝は轟く雷の音で目が覚めました。地面をえぐるような大雨と間近に落ちたのではないかと思うような雷鳴が続き、外に出るのも怖いほど。やっと少しおさまったのを待って、サルワール・カミーズの上からレインコートを着てリキシャに飛び乗りました。何ヶ月も遅れて、ようやっとバングラデシュに雨季が来たのでしょうか。

この雨で下水道が整備されていないダッカ市内はたちまち水浸しになり、道路は大渋滞。スタッフたちもあちこちで足止めを食い、皆が揃うまでにかなり時間がかかりました。

朝はあれほどの雷雨だったのに、夜も更けた今はうそのように静かです。水もだいたい引きました。

妙に印象的だった赤い月と地獄の音みたいな今朝の雷。
あとで9月の出来事を思うとき、この二つを一緒に思い出すでしょう。




投稿者: 藤岡 日 時: 04:05 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月11日

 読める歓び、書ける愉しさ

若くて熱心な先生.jpg
ショミティ・メンバーを対象とした識字教室は、シャプラニールの農村の活動の中でもかなり初期から実施してきたプログラムのひとつですが、取り組みが本格化したのは80年代後半、現在使っているオリジナル教材の初版が出たのは1994年です。農村の活動地事務所が3つの現地NGOとして独立したあとも、各団体はシャプラニール・オリジナルの識字教科書を引き継いで使っています。
写真左=熱心な若い先生が丁寧に教えています

数字を書いてにっこり.jpg
識字教室が行われるのは、だいたい6月から10月の雨季の間。農作業が忙しい時期や出稼ぎが多い時期を避けてこの時期に定着したようです。かつては男性ショミティが多かったため、彼らが仕事を終えて参加できる夜間、ランプを灯しながら識字教室をやっていたものですが、今は女性ショミティのほうが増えたため、午後3時から5時ぐらいの時間に行うことが多くなっています。
写真右=ベンガル数字で91から100まで書けました!にっこり。

オーラルセラインの作り方を書く.jpg
マイメンシン県イショルゴンジ郡のCOLIの活動地で、今ちょうど実施中の識字教室を覗いてきました。このクラスは6月から始まり、来月の最終試験で終わります。今日習っているのは、「オーラル・セライン(経口補水液)の作り方」の課。「半セール(セールは重さの単位)の水にひとつかみの砂糖とひとつまみの塩を入れるとオーラル・セラインができます」という文章を、参加者が順番に黒板に書いていました。教科書の本文には、「下痢をしたときはオーラル・セラインを飲みましょう。セラインはバザールでも買えますが、自分でつくることもできます。」という文章に続き、オーラル・セラインの作り方が書いてあります。 
写真左=「オーラルセラインの作り方」を書いています

識字教室の母と娘.jpg
識字教室に使う教科書は、学ぶショミティ・メンバーが関心を持ちやすく、また文字を学ぶだけでなく意識啓発にも役立つように、ということで、「木を植えましょう」とか、「結婚持参金は家庭に悲しみをもたらす」など、ショミティでの話し合いのトピックを意識した内容になっています。文字と同時に数字も習い、簡単な計算も学びます。
写真右=お母さんの教科書とペンを手に「その気」の女の子

今期COLIが開講している識字教室は女性の基礎クラスばかり29クラス。この日覗いた教室で学んでいた女性たちは、ほぼ全員が子ども時代にまったく学校で学んだことがない人たちでした。ペンやチョークを握り締め、ひとつひとつ文字を書く彼女たちは楽しそうで、毎日教室に通い、読み書きができるようになってきたことの歓びと自信が溢れていました。

働く子どもの夜間教室ー1.jpg
おとなの識字教室を見ても、働く子どもたちの教室を見ても思うことですが、学ぶ機会がこれまでなく困難な状況にあった人ほど、機会を得たときの学ぶ姿勢は真摯で、勉強することを本当に楽しんでいるようです。

COLIが夜間実施している働く子どものための教室も時々見にいきますが、子どもたちは元気いっぱいで圧倒されるほど。家具屋や茶店などで朝から晩まで、1日数十円の給料で働いている子どもたちですが、仕事の合間に2時間ほどの休みをもらってこの教室に来ている間、眠くなることなどまったくない、と言います。先生が計算問題を黒板に書き「誰か解ける人」と聞くと「ぼくが、ぼくが」と必死に手をあげ、我先に黒板の前に出ようとする姿は微笑ましく、同時に切ない気持ちにさせられます。
写真左=働く子どもの夜間教室の様子。このクラスは小学校の校舎を夜間使わせてもらっています。停電のためランプの灯りで授業中。

働く子どもの夜間教室ー2.jpg
本当ならまだまだ親に甘え、昼間近所の子たちと学校に行き、学校から帰れば思い切り走り回って遊びたい年頃なのに。好きな教科として子どもたちの多くがあげたのはベンガル語。詩や物語があるのが楽しいから、だそうです。

勉強は楽しい。心からそう言う子どもたち。夜9時に授業が終わると、何人かの子どもたちは店じまいを手伝うために、仕事場に戻っていきました。
写真右=元気いっぱいの子どもたち。また会おうね!




投稿者: 藤岡 日 時: 03:56 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月09日

 社会問題の根を見通す目が欲しい

精神科医でノンフィクション作家としても活躍されている野田正彰さんがバングラデシュを訪れ、先日ダッカ事務所にもいらっしゃいました。野田さんは80年代半ばに雑誌の企画で当時の川口事務局長にインタビューされて以来、シャプラニールの活動に関心を持ってくださっていたとのこと。スタディツアーや他の訪問者の予定が立て込んでいる時期でもあり、シャプラニールの活動現場を見たい、というご希望に沿うことは結局できませんでしたが、野田さんの旅の最初と最後にお茶を飲みながらお話する機会がありました。

バングラデシュ訪問は初めてとのことでしたが、わずか10日ほどの間に、オールドダッカを歩き、北部のインド国境沿いの少数民族の集落を訪ね、北東部のシレットでは紅茶園労働者の給料日の様子を観察し、南西部のシュンドルボンからダッカまでの船旅もされたそうで、その行動力にはびっくり。

短い旅ながら、バングラデシュの主だった都市の広い面積を占める軍用地や、紅茶園労働者をしばりつけている低賃金と低価格小麦配給のからくり、少数民族の中にもある格差などについて、鋭く観察されていました。私など1年以上この国に住んで活動していても、モノがよく見えていない事実をつきつけられたようで、いやーほんとに恥ずかしかったです。

「この国にとって何が本当に必要なのか、長い目で考えないといけないね。ODAにしてもインフラなどこの国の政府が当然やるべきことを他国のODAが代わってやる前に、現政府の政策内容を問うべきでは。少数民族への弾圧や広がる貧富の格差の問題などについても、もっと訴えていかなければといけないと思う」と言って帰っていかれました。

今回の旅のことをどこかに書かれるのかどうか、その辺りの計画についてはお聞きしませんでしたが、ぜひ野田さんのバングラデシュ・ルポが読みたいですね。

「貧困や差別・抑圧の問題は、世界や社会のあり方にその根をもっており、単純に財やサービスを供給するだけで解決する問題ではない。活動を行うにあたっては、常に問題の構造や原因を理解し、その解決につながる方法をみずから考える支援のあり方を重視する。」

これはシャプラニールの「海外協力に関する活動指針」に書かれている一節です。駐在員として今関わっているプロジェクトを実施することにいっぱいいっぱいになっていないか?この国の現在の問題が正確に見えているか?その構造や原因をちゃんと理解しているか?野田さんとのお話をきっかけに、あらためて自問していますが、まだまだ全然できていない、というのが実際のところ。

私たちはジャーナリストではないですが、とくに日本では伝えられることの少ないこの国の現在の状況について、質の高い情報を伝えていくことも駐在員として大事な役目。しかし、そういう情報収集・分析能力というのは一朝一夕には身につきませんね。やはりいつも注意深く社会の動きを観察しつつ、自ら動いていろいろなものを見に行き、分析し、考える、という積み重ねが必要でしょう。

能力的な限界はありますが、せっかくブログという発信の場も持たせていただいているのだし、なるべく広く、表面のみでなく、この国の状況をお伝えできるよう努力したいと思います。




投稿者: 藤岡 日 時: 01:45 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月03日

 東洋大学ツアー来訪

今日は今年の夏のツアーシーズン最後を飾る大型スタディツアー、東洋大学の子島(ねじま)進先生のゼミの皆さんがダッカ事務所来訪。昨夜遅い飛行機でダッカに到着し、皆さん寝不足だったのではないかと思いますが、さすが若い。みんな元気ハツラツ。

ダッカ事務所の食堂で「辛~い」と言いながらみんなでベンガル料理を手で食べ、シャプラニールのバングラデシュでの活動についてのオリエンテーションのあと(寝ないで聞いてくれてありがとう)、村訪問などで着る民族衣装(とくに女性のサルワール・カミーズ)の買い物に出かけられました。

総勢20人のツアーを率いる東洋大学国際地域学部助教授の子島先生は、シャプラニールの評議員もお願いしているパキスタン研究の専門家。昨年10月に発生したパキスタン大地震の2ヶ月あと、救援活動のモニタリングのため、地震の爪跡も生々しい現地に飛んで状況視察をしていただいたりもしました。(その時の報告は→こちら

子島先生のゼミの主なテーマは「フェア・トレード」。皆さん非常に真面目に取り組んでおられ、学園祭などではシャプラニールのクラフトもずいぶん売っていただいています。

オリエンテーションの時、学生さんそれぞれに「このツアーで何を学びたいか?」をお聞きしたところ、「生産者の人たちの生活がフェア・トレードを通じてどんな風に変わったのか知りたい」「村の女性の生活を見たい」「バングラデシュ国内でフェアトレード商品を買う人はどんな人か知りたい」「ノクシカタの成り立ちについて調べているので、村で使われている普通のカンタも見てみたい」「ストリートチルドレンの背景を知りたい」などなど、意欲的なお答えが返ってきました。

事務所前で集合写真を撮ったのだけど、残念ながら子島先生のデジカメのカードをここで読み取れず、今日のブログは写真はなし。一行は明日からシャプラニールでも扱っているBRACの手工芸品の生産者を訪ねて、ジャマルプールに3泊、そしてシャプラニールのほかの活動も見ていただくべくイショルゴンジの農村でのCOLIの活動視察、ダッカ市内のストリートチルドレン支援事業視察、と続きます。私は最初のオリエンテーションと最後の夕食会だけご一緒させていただきますが、小嶋駐在員がフルアテンドします。

トータル10日の盛りだくさんなツアー。しかもバングラデシュはまだまだ暑い。蚊もいる。食事はずっとベンガル料理。村では水シャワーのみ。ここでいかにうまく自分の体調管理をするか、というのもひとつのチャレンジです。みなさんどうぞ無理せず、でも意義深い10日間を過ごしてください。蛍が飛び蛙が鳴く村の夜、すがすがしい村の朝の空気もぜひ堪能して。

小嶋さん、アテンドよろしく。がんばってねー。(ほんと、駐在員はカラダが資本です)





投稿者: 藤岡 日 時: 21:41 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年09月02日

 暗殺の家でバングラデシュとSNの歴史を想う

その家は我が家からリキシャで10分足らずのところにあります。ダンモンディ旧32番通り10番地。ダンモンディ・レイクと呼ばれる池に面した住宅街の一角にあるその古い家は、バングラデシュ独立の父、ボンゴ・ボンドゥ(ベンガルの友)と呼ばれた初代大統領、シェイク・ムジブル・ラーマン(ムジブ)が1975年8月15日、軍の青年将校たちによるクーデターのため、近親者たちとともに暗殺された家なのです。

この家、今はボンゴ・ボンドゥ記念館として、暗殺された当時そのままの様子が保存され、一般公開されています。近くにありながら、足を踏み入れたことがなかったのは、このあたりが野党アワミ連盟の本拠地で、反政府集会の会場になったりしていささか物騒な地区のせいもありますが、殺された人たちの怨念のこもっていそうな家を、ふらっとひとりで訪ねようか、という気にならなかったこともあります。

この8月、来客ラッシュに混ざり、私メの夫もようやく休みを取ってバングラデシュにやってきて、このボンゴ・ボンドゥ記念館を見たいというので、8月最後の週末、リキシャに乗って行ってみました。

財布以外の荷物をすべて道路の反対側のブースに預け、ボディチェックをされて中に入ると、ブルーグレーに塗られた古い家の天井でこれまた古いファンがブンブンと回り、独立の頃のモノクロの写真が展示されていました。家は3階建てで、居室は主に2階と3階にあり、ガラス越しにムジブル・ラーマンが独立宣言の放送をした書斎や、寝室、各国の土産らしい人形がたくさん置いてある息子夫婦の部屋、応接間、ムジブの執務室などを見て回れるようになっています。ガラス板でカバーされた壁や天井の血痕。廊下の両側にかかる殺された17人の肖像画。ムジブが殺された階段には、国旗と赤い花、そしてムジブの暗殺の瞬間をやや抽象的に描いた絵が掛けられています。

このとき、国内にいた親族は幼い子どもを含め皆殺しにあいましたが、海外に出ていた二人の娘は難を逃れました。この娘の一人が前首相で野党のアワミ連盟の現党首であるシェイク・ハシナです。(アワミ連盟のウェブサイトには父ムジブに肩を抱かれた若き日のハシナや、このボンゴ・ボンドゥ記念館の階段で祈りを捧げるハシナの写真がアップされたアルバムがあります。興味のある方はどうぞ。)

部屋はどれも簡素で、日本人形がいくつも飾られているのが印象的でした。31年の歳月に、古い家具が色褪せ、家の中全体がセピア色になっているようですが、今でも何か凄惨な空気が漂っているような感じがしました。

31年前の出来事を保存する記念館を、すっかり遠くなった歴史の一部、という感じで見てきたわけですが、考えてみたらこの事件の3年も前に、シャプラニール創設時の先輩たちはバングラデシュに入っていたのでした。当時はダッカに「シャプラの家」と呼ばれ、会の名の由来となった事務所を開き、最初の活動地ポイラ村にも何人かが住み込み、手工芸品協働組合や夜間教室などのプロジェクトを手探りで始めていた頃。ムジブが殺されたクーデターの日、当時のダッカ事務所は大統領邸に近かったので、駐在員は「銃声と大砲の音が聞こえて目が覚めた」と『シャプラニールの熱い風』(めこん)には書かれています。FAXもなく、手書きの文書や録音テープを郵送して、東京とのやりとりをしていたという時代です。

その頃バングラデシュにいた先輩たちは、30数年後にもこの会の活動が続き、バングラデシュでのプロジェクトの裨益者数が2万人を超え、農村の地域事務所が現地NGOとして独立し、駐在員がインターネットのブログなどというものを使って瞬時に写真入りの報告が日本に送れるようになるなど、想像もできなかっただろうな、と思います。

駐在員としてここにいると、日ごろは目先の仕事に追われていますが、ふとした時に、多くの人たちが長い時間をかけてじっくりと培ってきた経験の積み重ねのこと、それに連なって今ここで自分が仕事をしていることに思いを馳せます。そして、今私たちは正しい方を向いて歩いているだろうか?と自問するのです。

昨日、9月1日はシャプラニールの34歳の誕生日でした。
独立直後の混迷の時代にこのバングラデシュに入り活動を始めた先輩方に敬意を表して。





投稿者: 藤岡 日 時: 23:42 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)
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