シャプラニール=市民による海外協力の会
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シャプラニールについて

藤岡ダッカ事務所長のブログ1998年から3年弱インドに住んだのをきっかけに南アジアとの縁ができ、引き寄せられるようにシャプラニールへ…。そして2005年5月からダッカへやってきました。最近の趣味は、そぞろ歩きを楽しむダッカ市民に混じり、サルワール・カミーズにスニーカーを履いて夕方の公園でウォーキングすること。バングラデシュの村や都市で今起こりつつある変化をなるべくコマメにお伝えしていきたいと思っています。どうぞよろしく。

特定非営利活動法人
シャプラニール=
市民による海外協力の会(地図・住所
〒169-8611
東京都新宿区西早稲田2-3-1
早稲田奉仕園内
TEL:03-3202-7863
FAX:03-3202-4593
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2006年08月31日

 少女たちの村芝居

バングラデシュの人たちは本当にお芝居が好きです。
テレビなどの娯楽が広まったため、以前に比べると本格的な村芝居はずいぶん減ってしまったそうですが、シャプラニールの活動地でも子どもたちのグループや思春期の少女たちのグループのメンバーが、早婚や持参金の問題やHIV/AIDSのことなど、メッセージをこめたお芝居を時々上演します。時には日本からのスタディツアーなどの来訪に合わせ、1週間ぐらいで新しいお芝居を作って上演してくれることも。
 
学校でも独立記念日の行事などでは、数人の選ばれた生徒が順に前に出て、独立のために戦ったフリーダムファイターや独立戦争で子どもを失って気がふれてしまった母親などの一人芝居を披露したりします。

テロスリー・メグラ少女クラブの劇.jpg

写真の少女たちはおととい紹介したテロスリー小学校のすぐ近く、テロスリー村のメグラ(雲)少女クラブによる村芝居。このグループの子たちはとても芸達者で、劇のレパートリーもすでに4つあるそう。脚本や配役は自分たちで話し合って決めるそうですが、だいたい「はまり役」というのがあるもので、男役がうまい子、お年寄りの役がうまい子、NGOワーカー役の子などは、毎回ほぼ似たような役をやっている模様。

劇の上演があるときは、近所の子どもたちやお年寄りも集まって、おかしなシーンでは皆がわっと笑います。深刻なテーマの劇でも何か笑える工夫がしてあって、おとなから子どもまでが楽しく見ています。

この日の劇は、マザコンの夫としゅうとめが、輸血が元でHIVに感染している疑いがある嫁をいじめて追い出してしまいますが、NGOワーカーがHIVについて正しい知識を説明し、離婚を思いとどまらせる、といったストーリー。孫であるこの嫁の身を案じておろおろする実家のおばあちゃんや、コビラージュ(まじない師)、ウワサ好きな近所の人、お医者さんなども登場。クラブのメンバーは10数人いますが、今日の「役者」は5人。ほとんどが一人二役をこなします。おばあちゃん役は髪をチョークで白くし、コビラージュは長いヒゲをつけ、男役は髪を帽子に入れてルンギ(男性の腰巻)姿...など、衣装もなかなか凝っています。

テロスリー・メグラ少女クラブの劇2.jpg

元々思春期の少女たちに、身体の変化や出産のしくみ、女性の権利などについての研修が必要、といったことから始まった少女グループですが、自分たちの新聞をつくったり、洪水のときガタガタになった道を直したり、小さな橋をつくったりと、村の中でのボランティア活動にも熱心な彼女たち。ポイラには今少女グループが16ほどありますが、このメグラ・クラブは比較的学歴の高い少女たちが多く、高校やカレッジに通っている子が大半。卒業後は教師になりたい、弁護士になりたい、警官になりたい、などと抱負を語ってくれました。

(そういえば最近、村の少女たちに警察官志望者がけっこういるんですよねー。警官志望の小学生の女の子に、なんで?と聞いたら、「テロリストをやっつけるの!」と言っていました...。)




投稿者: 藤岡 日 時: 22:03 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年08月30日

 カラ・モンスーン

温暖化はじめ世界中に広がる異常気象。ここバングラデシュも例外ではなく、「最近季節がおかしい」という声はいろいろなところで耳にします。2年前の洪水が大きかっただけに、こちらに来てから今年は来るか来ないかと洪水の心配ばかりしていたのですが、今年は逆に雨季にもかかわらずほとんどまとまった雨が降らず、しかも大河の上流でも雨が少ないため、旱魃が心配される事態となっています。「カラ梅雨」ならぬ「カラ・モンスーン」です。いつもなら野に水が満ち溢れ、草原が沼となり、川幅は広がり、低い中洲は水に沈み、人々がノウカと呼ばれる小舟であちこち行き来できる季節なのに、今年はさっぱり、なのです。

ポッダ、ジョムナ、ブラフマプトラといった主だった大河の水位は、観測史最低まで下がっているとのこと。具体的に言うとここ25年、こんなに水位が下がったことはなかったそうです。先日ダッカから車で1時間半ほどでいけるマワ・ガートへ行って来ましたが、川岸の茶店の兄さんにお茶を飲みながら聞いてみたら、ここでも平均的な年より4メートルも水面が下がっているとのこと。写真を撮ってくればよかったのですが、確かに水が少ないといわれた去年よりさらに水面が下のほうにあり、海のように見えるはずの雨季のポッダ川が、なんだか小さく見えました。

ガンジス(ポッダ)河畔で.jpg

写真は去年の今頃、マワ・ガートのポッダ河畔で撮ったもの。向こうが全然見えず海みたいですよね。かすかに向こう岸のように見えるのは広大な中洲です。今年は同じアングルで見ると、向こう側に黒々、はっきりと中州が見え、道路とあまり変わらない高さにあった水面がずっと下にあるのです。(あー、ほんとに今年こそ写真を撮っておくべきだったなあ。)

月曜日の新聞の一面に出ていた写真は広大な草原でゆったりと牛たちが草を食んでいるというもの。何も知らずに見ればなんでもない写真なのですが、これは北部バングラデシュでもっとも大きな湿地帯、チャラン・ビールを写したもので、ここで雨季の間に地面が出ているというのは異常な光景なのです。日本で言えば、ダムの底に沈んだ村が出現してしまったようなもの。住民たちはここが以前雨季に干上がったのはいつだったか、思い出すこともできないというのです。

この異常気象のため、雨季の後期に行われるアモン米の栽培に既に影響が出ています。水がなくて栽培できない田が出ているためです。このままだと乾期の地下水位も下がり、乾期に灌漑稲作として栽培されるボロ米の収穫にも大きな影響が出てしまいそうです。シャプラニールの活動地の中でもとくに地下水位が低いイショルゴンジあたりでは、この冬は水が出ない井戸が増えてしまうでしょう。

大洪水は困るけれど、水があるべきときにないのも大問題。モンスーンらしいまとまった雨が降ってくれることを祈るばかりです。




投稿者: 藤岡 日 時: 22:47 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)
2006年08月30日

 小学校の風景

8月も残すところあと2日。
日本の小学生たちは泣きそうになりながら夏休みの宿題をやっている頃でしょうか?
私もぎりぎりまでやらないほうだったなあ...。

バングラデシュの小学校の教室はどんな感じでしょう?
今日の写真はマニックゴンジ県ポイラユニオンのテロスリー小学校の教室の様子です。

テロスリー小学校試験中.jpg


これは先週、8月23日に撮ったもの。
この日はちょうど試験中。

おいおい、隣の子と相談しちゃだめだぞ!




投稿者: 藤岡 日 時: 02:19 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年08月28日

 来客ラッシュ!

8月のダッカ事務所はスタディツアーに始まり、来客ラッシュ!です。とくに8月後半のお盆の後は、日本からのお客様が集中します。先客万来、有難い限りで、こちらもスタディツアー参加者や訪問者の方々との話や、一緒にフィールドを訪問する中から学ぶこと、気づくことが多い楽しい期間でもあるのですが、事務所でも家でも机に座る時間はなかなかとれません。そんなこんなでブログも気づけば10日も間が空いてしまいました。

しかし、その間にも旱魃やマドラサの学位問題など、バングラデシュでは気になること、書いておきたいことがいろいろ起こっています...。

なのですが、今日は時間がないので、数日前にポイラで撮ったバナナの葉をバリバリ食べる羊の写真で失礼。これからまた少しずつ書きます。

バナナの葉を食べる羊たち.jpg




投稿者: 藤岡 日 時: 03:05 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年08月16日

 子どもとおとな、初めての共同マネジメント委員会

DICのマネジメント委員会.jpg
今はダッカ事務所の昼休み。先ほど、現地NGOのオポロジェヨ・バングラデシュとシャプラニールが協力して運営しているストリート・チルドレンのためのドロップ・イン・センターから帰ってきました。今日の午前中何があったかというと、子どもたちとスタッフでつくる共同マネジメント委員会(ジョイント・マネジメント・コミッティー)の第1回のミーティング。ストリート・スクール(青空学校)でひとつ、ドロップ・イン・センターでひとつ、委員会を組織して、みんなの共通の問題について話し合います。それぞれの委員会のメンバーは5~7人の子どもと2人のオポロジェヨのスタッフからなり、子どもたちの代表は選挙で選びます。
(写真=ドロップ・イン・センターの共同マネジメント委員会。おとなの男性はオブザーバーとして参加したシャプラニールダッカ事務所スタッフ)

今までもこういう試みがなかったわけではありません。子ども会議や子どもとスタッフの共同会議はこれまでもやっていましたし、子どもたちが自分たちのルールを決めたりもしていました。でも、少し話が大きなことになると、子どもたちが出し合った意見をおとなが聞いて、おとなが決定するときの参考にするに留まっていました。また、下手をすると子どもたちがスタッフにいろいろな「要求」(部屋が暑いから扇風機をつけてほしい、など)を出す場になってしまうこともありました。

議長と書記.jpg
でも今年から始まったこの共同マネジメント委員会では、子どもたちにも委員としての権限があり、責任をもって意思決定に携わることになります。委員の子どもたちは皆、この委員会の目的や委員の役割を書いた紙をしっかり読み、理解して同意したらサインをします。議長や書記も子どもたち。おとなメンバーは必要なコメントはしますが、会議を仕切ってしまったり自分の意見を子どもたちに押し付けたりすることのないよう、注意深く参加しなければなりません。ただし、会議運営の経験が少ない子どもには、技術的なサポートも必要。議論が沸騰したあと、結論をどうまとめたらいいか迷っている議長の子どもに、時には助け舟を出す必要もあります。これにはかなりスキルが必要です。
(写真=ストリート・スクールの共同マネジメント委員会の議長と書記)

今日のドロップ・イン・センターの共同マネジメント委員会の議題は、6つありました。1.食べ物について、2.服の盗難について、3.勉強について、4.新しい仕事について、5.子ども銀行について、6.その他、です。どれも子どもたちにとって切実な問題ばかりでしたが、そのうちのひとつ、「2.服の盗難について」の議論の一部を再現してみましょう。

カハル(議長)「じゃあ、次の議題は服の盗難について。この議題について提案者のカジョリから説明してください。」
カジョリ「私たちはすごく苦労してお金をためて自分たちの服を買ってるけど、それを洗って屋上に干しておくと外から来て盗っていっちゃう子がいる。服を盗られたら学校に行くときも困っちゃう。だから私たち子どもたち何人かで服の見張り担当を決めて、順番に見張りをしたらどうかと思います。」
ラナ「そうだよね。僕たちは紙袋作りの仕事とかをしながらちょっとずつお金を貯めて服を買ってるけど、それを盗られたら困っちゃう」
モミヌル「見張りはナニ(掃除や子どもたちの世話をするスタッフ)にやってもらったら?」
ハシナ「それはダメだよ。ナニはもういっぱい仕事があるんだから、これ以上仕事を増やしたらパンクしちゃうよ。私たちの服なんだから見張りも私たちでやらなきゃ。」
スタッフ「外から来て服を盗っていっちゃう子はどんな子なのかな。その子たちはドロップ・イン・センターに来てない子なの?」
カジョリ「来てない子。でもその子たちも服がないんだと思う。親が買ってくれないとか。そうじゃなければ盗っていったりしないと思う。」
スタッフ「じゃあその子たちにも教えてあげないといけないよね。人の服を盗っちゃいけない、ってこととか」

結局、洗濯物を干しているときの見張り番を子どもたちの中から選ぶ方向で、ほかの子どもたちにも委員会から話をしよう、ということになりました。ドロップ・イン・センターの「子ども代表」は、10代半ばぐらいで学校に通っている子が多く、皆とてもしっかりしています。スタッフが口を出すのはほんのわずかでも、話し合いはとても活発に進んでいました。

SSのマネジメント委員会.jpg
隣の部屋で行われていたストリート・スクールの委員会のほうは、もう少し小さい子が多く、議長の少年はなかなか苦戦している様子。年下の子どもたちがなかなか発言しないのです。のぞいてみると、こちらはちょっとスタッフも口を出しすぎ、仕切りすぎ。こちらは議長役の子も、スタッフも「みんなが参加できる会議運営」のスキルをもっと身につける必要がありそうです。

(写真=ストリート・スクールの共同マネジメント委員会)

この子どもたちとスタッフの共同マネジメント委員会は、これから毎月実施されます。議題はほかの子どもたちとも話し合って決められ、決まったことはまたみんなにシェアします。

子どもの参加をより本当のものにし、子どもたちのマネジメント能力を高めていく試み、これからどんな風に進んでいくか、楽しみです。




投稿者: 藤岡 日 時: 16:44 | | コメ ント (2) | トラッ クバック (0)

2006年08月11日

 「自分から変わろう」という人たちと仕事したい-その1

先日のインド出張、仕事の中身を書かないままでしたが、あれは今年から始まるインドプロジェクトのひとつ、「コルカタ周辺で家政婦として働く女性たちへの支援事業」を共に実施するパートナー団体、ポリチティ(Parichiti)との打ち合わせと契約書を交わすのが主目的だったのでした。

会員の方にはすでにシャプラニールの会報「南の風」でお伝えしているので、繰り返しになりますけど、会報に書いたのとはちょっと違うかたちでポリチティとそこに関わる女性たちのことを紹介したいと思います。

ポリチティの理事やスタッフは全員女性。組織の規模は小さいのですが、国際NGOのシニアスタッフや新聞の論説委員など、仕事を持って第一線で活躍している女性たちが中心になって立ち上げました。
そのうちのひとり、オンチタ(Anchita)は誰もが名前を知っている大きな国際NGOのマネジャーレベルの人ですが、まったくの個人としてポリチティの活動に関わっています。ドロン(Dolon)も西ベンガル州でよい活動をしている中規模NGOの副代表。彼女たちと最初に会って話を聞いたのは去年の9月だったから、もうすぐ1年たつんですね。

Parichiti.jpg

写真左=ポリチティ立ち上げの中心メンバーのうち3人。左から、ドロン、バシュワティ、オンチタ。バシュワティは英字紙の論説委員

ポリチティ設立の経緯について、Anchitaは言っていました。

「だいぶ前から、コルカタ市に隣接する南ポルガナ県とか北ポルガナ県の農村からコルカタの中流家庭の家政婦として通ってくる女性がどんどん増えてきたの。とくに早朝彼女たちを乗せてくるローカル列車は、Domsetic Worker Expressなんて呼ばれるようになった。彼女たちの状況はほんとにひどくてね。列車にはもちろん駅にも女性が使えるトイレなんかないし、日も昇らないうちから家を出て何時間もかけて通ってくるから、村で子どもたちの面倒を見る人もいないんだよね。そういう人たちの夫はたいてい仕事がなくて、生活は彼女たちの肩にかかってるから、女性たちは何件も家をかけもちして必死で働くの。早朝から午後2時とか3時までの間に3件ぐらいの家でものすごい量の仕事を超特急でこなして、また満員列車で帰るわけ。それでも家に帰りつくころには日が暮れちゃうんだけどね。彼女たちはほとんど休みもないし、食事をする場所もないし、雇い主の中には彼女たちをまともに人間扱いしないような人も多くて、トイレも使わせなかったりする。ちょっとでも遅れたらすぐクビにしたり、暴力を振るったりね。

農村に戻る列車.jpg
写真右=コルカタから農村へ向かう午後の列車の女性専用車

私たちはそういう女性たちの状況が気になっていて、NGO仲間の女性同士顔を合わせるたびに、ずっと『誰かが彼女たちのために何かするべきだよね』って話していた。でもこういう問題に取り組むNGOってないんだよね。あまりにも自分の生活に近すぎるというか。私たち中流階級のNGOスタッフも家ではほとんどの人がお手伝いさんの世話になっていて、だからこそ働けてるわけだからね。結局この問題に取り組むことは、自分とかすごく自分に身近な人の生活に真正面から向き合うことにならざるを得ないわけよ。NGO関係者でもそういう自分の私生活に返って来るようなことは避けたいって人が多いんだよね、正直なところ。」

「それで、私たちはついに決めたの。『誰かがやるべきだ』って言い続けて何もしないことはもうやめよう、って。それでお金はないけど私たちの給料の一部をつぎこみながら、この問題に取り組み始めた。これまでコルカタで家政婦の女性たちの問題に特化して取り組んでる団体なんてなかったから、そのうち何かあると他のNGOからも連絡が入るようになってきた。まだ10代前半の少女が、家政婦として働いていた家で不審な死を遂げた事件とかね。それで被害者本人や家族がそういう事件の訴訟を起こすときに裁判のモニターを手伝うことも始めたの。一度単発でアメリカの女性団体から助成金をもらったけど、それももう切れちゃうから、シャプラニールの支援は本当に有難い。これでやらなきゃと思いながらできなかったいろんなことができると思う。」

駅の相談コーナー.jpg

写真左=駅のホームの一角を囲ってポスターを下げたポリチティの相談コーナー。黄色いサリーの女性はポリチティのスタッフ

ポリチティは今、毎週火曜日にこういった女性たちが多く使うローカル列車の駅のひとつ、コルカタ南部の「ダクリア駅」に出向いて、女性たちの話を聞いたり相談にのっているほか、家政婦として働く女性が被害者となったケースの裁判の支援、彼女たちの状況改善のための地方政府への働きかけなどをしています。たとえば最近、あまりに超満員の列車から女性が落ちるという事故があったそうで、「女性専用車」を増やしてほしい、といった働きかけをコルカタ市当局にしているとのこと。

シャプラニールと一緒に始める新事業では、これまで彼女たちが自腹をきってやってきた仕事をサポートすると同時に、この駅の近くに女性たちが立ち寄り、トイレを使ったり、水を飲んだり、食事したり、休んだりできるようなドロップ・イン・センターの運営も始めます。

コムラーさんを訪ねて.jpg

写真右=ダクリア駅を使う女性のひとり、コムラーさんの家を訪ねた。農村とも言い難い郊外の荒れ地のような場所だった。

「でも、女性たちにサービス提供することが私たちの目的じゃないの。ゆくゆくこの女性たちが自分たちの組織をつくって、労働条件をよくするための交渉や社会への働きかけができるようになること、それが目的。だからドロップ・イン・センターでも、場所はもちろん使ってもらうけど、食事の提供をしたりする気はないの。そこで女性たちが集まってミーティングをしたり、ワークショップをやったりできる場にしたい。そういう場を提供することや、女性たちが力をつけていく手伝いをしたり、彼女たちの声が社会に聞かれるようにファシリテートしていくのが私たちの役目。こっち側の駅での活動だけでなくて、農村部でもやらなきゃいけないことはたくさんある。」とオンチタやドロンは言います。

私たちが日本で「南北問題の解決は日本など先進国で暮らす私たち自身が自分の生活をみつめなおすことなしにはありえません」と言っているのと同じことで、南アジアの都市問題の解決には、そこで暮らす中・上流階級の人たちが自分の生活を見直し、変えていくこと、自分たちの生活を支えながら困難な状況で暮らしている貧しい階層の人々の存在を意識することが不可欠だと私は思っています。

だからこそ、とくに都市のプロジェクトのパートナーは、「自分たちから変わろう」という人たちと仕事したい。「かわいそうな人に援助する」という考え方ではなくて、「自分たちが変わり、できることをすることで、世の中が変わっていく」という考えを持っている人たち、困難な生活を強いられる「当事者」の声を熱心に聞き、その人たちが力をつけて自ら立ち上がっていくことが重要だと考えている人たちと一緒にやっていきたい。 

ポリチティのメンバーは、駅を使う女性たちと相談しながら今ドロップインセンターの候補物件探しを進めています。ポリチティの団体としてのロゴも今までなかったのですが、これも家政婦として働く女性たちにどんなのがいいか聞きながら作ろうと思っているそう。

規模は小さいし、まだこれから始まる新プロジェクトですが、きっとこの活動にはシャプラニールのこれまでの経験も生かせるし、シャプラニールがこの活動を通じて学べることも多いはずだと信じています。そして、バングラデシュやネパールで同じような取り組みをしているNGOともぜひ経験交流の場を設けたい。都市の問題と農村の問題にバラバラに取り組むのでなくて、両側から同時に取り組むうちに都市と農村の関係や人の動きがみえてくる...そんな仕事もやっていきたい、と思っています。

私も何かできる形で関わってみようかな...そんな風に思ってくださる方がいらしたら、ぜひこちらから。




投稿者: 藤岡 日 時: 17:01 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年08月07日

 タゴールの命日

Coffee House.jpg


今日(これを書いているのはバングラデシュ時間では8月6日)は広島原爆の日ですね。
そして...今日がタゴールの“65thDeath Anniversary”ということで、新聞の文化面は全部タゴール特集。テレビもタゴール記念番組がいろいろ放映され、ダッカ大学や町中でもタゴールソングや戯曲の上演など、タゴールにちなんだ催しが。

だからてっきり私は今日がタゴールの命日だと思って、「そうかタゴールの命日のちょうど4年後に原爆が落とされたのか...」と感慨にふけっていたのですが、よく調べたらタゴールの命日は今日じゃなくて明日8月7日みたい。英語でDeath Anniversaryというときは、命日の1日前までで数えるものなんですか?それともバングラデシュ社会全体がタゴールの命日を1日間違えてるのか?そんなはずはないですよね...。うーん、しかし釈然としないな。

それはまあよいとして、とにかくベンガルが生んだ巨人、詩聖タゴールが亡くなって65年であります。生涯に数千にのぼる詩や歌(インドとバングラデシュの国歌含む)、戯曲や小説を残したタゴールは、今も国境の両側にまたがり、ベンガルの人々の心の宝です。(上の写真はコルカタ大学近くにある有名なコーヒー・ハウス。もう100年以上はたっている建物で、昔も今も知識人や文化人、学生たちの語らいの場です。壁にかかっているのはタゴールの肖像。)

シャプラニールが支援する、バングラデシュの村の貧しい子どもたちの補習教室でも、思春期の少女たちのグループでも、タゴール作詞・作曲の国歌、「アマル・ショナル・バングラ」(わが黄金のベンガル)はよく歌われます。伴奏もないことが多いし、子どもたちの歌は調子っぱずれなので、最初のうちは聞いてもメロディーがよくわからなかったのですが、ゆるやかな、ベンガルの豊かな自然への憧れに満ちた歌です。

命日にちなんでタゴールの人生を少し振り返ろう、と思って、手元の森本達雄著「ガンディーとタゴール」(第三文明社レグルス文庫)のページをめくってみました。持ってはいたけどちゃんと読んでいなかった本のひとつです。(恥ずかしながら私の手元にはそういう本がいっぱい)

この本はNHKラジオで語られたお話を元にまとめられているので、ですます調の語り口の中に、著者の森本氏のタゴールやガンディーへの思いが溢れていて、タゴールやガンディーの命日や誕生日に読むにはよい本です。

あらためて知ったのですが、タゴールがアジアではじめてノーベル賞を受賞したときの他の候補にはフランス文壇の大御所アナトール・フランスや、哲学者のアンリ・ベルグソンもいたんですね。タゴールの推薦書は詩人イェイツの友人がまったく個人の資格で出したただ1通のものでしたが、詩集『ギタンジャリ』を読んだ選考委員たちは深く心を動かされ、この当時西欧社会では無名だったインドの詩人を受賞者に選んだのでした。「当時、『白人』でない詩人に賞が贈られたことに、西洋社会はいたく驚きとまどった」のだそうです。んー、そうでしょうなあ。
でもタゴールは自分の作品が「国境や言語や肌の色を越えて」理解されたことを素直にとても喜んだそうです。

「生来の自然児」であったタゴールは、イギリス式の学校の詰め込み教育に耐えられず、ついに学校の卒業証書はひとつも手にしておらず、教育はすべて家庭で受けています。8歳のときから詩を書き、21歳のときに「世界の普遍的な光」と自己の合一の歓びを感じる体験をし、生涯を通じて大自然と生命の中にある「永遠なるもの」を賛美し続けたタゴールは、30代のとき10年間を農村で暮らし、さまざまな「農村開発」の方法を試みた人でもありました。

この本によるとタゴールは「無力な農民の力を結集すべく、農業共同組合的な自治組織を設立、悪質な高利貸しの魔手を排除するための頼母子講を導入、農閑期の副業としての織物・染物・皮細工などの家内工業の振興と市場の開発に奔走」「自ら家庭医学書を読みあさり、だれにでもできる基本的な病気の治療法や薬草の知識の普及にも努めました」とあります。

これって今シャプラニールやいろいろなNGOがやっていることと、基本的にあまり変わらないですよね。
非常に裕福な家の出のエリートだったとはいえ、自身がベンガル人であるタゴールが100年以上前に「農村開発」に取り組んでいたことを思うと、今のバングラデシュの状況は進歩しているんだかしていないんだかよくわからなくなります。

晩年のタゴールは世界各地へ旅をし、世界平和と機械文明や商業主義への警告を訴え続けました。森本氏の本にはこう書かれています。

「こうしてタゴールは、いよいよ『世界市民』としての自覚と責任感を強め、以来彼は、その死までの晩年の歳月のほとんどを、『狭い国家主義の壁によってばらばらにされない』一つの世界の理想の松明をかかげて、ヨーロッパから南北アメリカ大陸へ、ソヴィエトから中国・日本・東南アジアや中東の国々へと、愛と平和の巡礼の旅を続けたのでした。タゴールほど、自分の頭上にかがやいたノーベル賞の栄誉を、人類に還元したノーべりストはいなかったと言えましょう。」

そして第二次大戦の悲劇に心を痛めながら、しかし、死に瀕してもなお「この世は味わい深く、大地の塵までが美しい-」で始まる生命賛歌の詩を残し、80歳の生涯を閉じたのでした。

タゴールが今生きていたら、ガンディーが今生きていたら、このいまだに不公平と争いに満ちた世界を見てどう思っただろう?と時々考えます。そして彼らが今の時代に生きていたら、どんな行動をとっただろう?

最後に、シャプラニールの評議員でもある、北星学園大学の萱野智篤先生・真理子さんご夫妻に教えていただいたタゴールの詩のひとつを紹介します。

危険から護られるよう祈るのではなく

危険から護られるよう祈るのではなく、恐れる事なく直面しよう。
わたしの苦しみの納まることを願うのではなく、それを克服する心をこそ願おう。
人生の戦場で同盟軍を求めるのでなく、われわれ自身の力をこそ求めよう。
救われることを心配しながら求めるのではなく、わたしの自由を勝ち取る忍耐をば望もう。
わたしが、人生の成功のためのみにあなたの慈悲を当てにする卑怯者ではなく、
わたしの失敗のなかにあなたの手の握りを発見する勇者でありますよう。

ラビンドラナート・タゴール、「果物採取」より
川口正吉訳


目先の仕事だけにとらわれるのでなく、タゴールを生んだこのベンガルの大地で働けることの歓びを、時折タゴールの詩集をひもといて感じながら、日々を過ごしたいものです。

追記:またインド事業に関係ない話になってしまいましたが、次回こそ。





投稿者: 藤岡 日 時: 01:06 | | コメ ント (2) | トラッ クバック (0)

2006年08月04日

 コルカタの路面電車


今日は初めて動画を載せてみました。(動画を見るにはFlash Playerが必要です。⇒ダウンロードはこちら

この映像は、7月31日にコルカタ北部、College Streetの古本屋街付近で撮ったもの。路面電車に続いてインドでは今もうコルカタにしかない人力車が通ります。

この人力車、97年以降は新しい免許を出さなくなったので、今引いている人たちが廃業したら消えていきます。

なんだか仕事に関係ないことばかり書いているので、バングラデシュの仕事をほっぽって観光に行ってんのか?!と思われてしまうかしら。次はもうちょっとシャプラニールのインド・プロジェクトに関係のあることを書きます。




投稿者: 藤岡 日 時: 11:00 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)
2006年08月04日

 コルカタの街角から

さっきまで書いていた長い文章が、操作ミスで全部消えました(泣)
これはつまり、最近文章が長すぎる、というお告げだと解釈し、今日は文章は短くして写真メインです。


Culcatta is devided.jpg

(左)
コルカタ中心部を歩いていたらみかけた印象的な看板。コルカタに本社がある英字紙Telegraphのもの。
鉄条網の絵の中にCalcutta is divided(カルカッタは分断されている)の文字。そして上と下にはNorthとSouthの字が。ひとつの国、ひとつの都市の中にも「南北問題」がある...という、最近私が感じてるのと同じことを思ってる人がいたんだな。でもそう言ったら東京だってdivided、かもしれない。


電気店の前の行商人.jpg

(右)
最新の電気製品を売るエアコンの効いた店の前で、座り込んで昔ながらの商売をする人たち。
売ってるものは錠前とか、タッパーウエアとか買い物袋。
このあたりはおしゃれな店もある一方で、露店がいっぱい。
コルカタ南部のゴリアハトにて。


パンタルーン.jpg

(左)
コルカタで若い人が集まるおしゃれな店のひとつ、パンタルーン。セール中とあって、夜遅くまで日本のバーゲンのときのデパートさながらの混みよう。品物はいろいろあって楽しいけど、ロゴ入りポリ袋を何枚も重ねる過剰包装は困ります。(ちなみにダッカはポリ袋禁止です)
店の中は華やかですが、前の道路の高架下には家族ごと路上に住んでいるストリート・チルドレンならぬストリート・ファミリーをいつも何組もみかけます。

街中の井戸.jpg


(右)
コルカタの街は道端にこんな井戸がたくさんあります。水道が普及する前から人々が共同で使っているもの。昔馬車が走っていた頃は、馬に水を飲ませるのにも使われていたとか。
路上で暮らす人、路上で商売する人には有難い水。もちろん急に手足や顔を洗いたくなった旅人にも。


お茶の屋台.jpg


(左)
交差点のお茶の屋台。
昔ながらの素焼きのカップと、プラスチックのカップ両方あるのはなぜ?と聞いたら、「好きなのを選んでもらうため」とのこと。
ここでお茶を立ち飲みしていたら、自分のマグカップを持ってきて、「これに入れて」と注文している人もいました。

・・・なんだか脈略ないような写真集ですが、本日はここまでです。




投稿者: 藤岡 日 時: 01:46 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年08月03日

 インドの空をめぐる熾烈な競争

「最近、安い飛行機のチケットが手に入るようになったから国内移動が便利になったわ~」というのは、インド人の友人から聞いていたのですが、こんなすごいことになっているとは今回あらためて調べるまで知りませんでした。いやー、インドの格安エアラインというのは参入に次ぐ参入でもうすごい激戦状態になってるんですね。

かつてはインドの国内線といえば、インド国営のインディアン・エアラインの寡占状態だったのですが、1991年のラオ首相による大胆な産業開放政策に伴って航空産業も民間に開放され、92~93年にはエア・サハラジェット・エアウェイズといった民間航空会社が参入。とくにジェット・エアウェイズは行き届いたサービスとリーズナブルな価格でぐんぐん伸び、今はインド国内線ではシェア40%で堂々第一位。ムンバイからシンガポールへの国際便も毎日飛ばしています。

90年代の半ばから後半は2、3の貨物専用航空などを除いてあまり新しい航空会社の参入はなかったようですが、2003年設立のバンガロール拠点のエア・デカンの成功が引き金になり、ここ数年、格安民間航空市場は新規参入が相次いでいます。広いインド、しかも購買力のある中間層が増大し、飛行機で旅する人も増えたため、それでも各社かなり儲かっているようです。

以下、インドの主な民間航空会社を設立年で並べてみましょう。
1991年 Air Sahara (操業開始は1993) 
1992年 East West Airline
1993年 Jet Airways
2003年 Air Deccan
2004年 Go Air
2005年 Kingfisher Airline / Spice Jet / Paramout Airways/ Indus Airways
2006年 IndiGo Airlines /Jagson Airlines

去年から今年にかけてがとくにすごいですね。Kingfisher Arilineはインドの代表的なビール、キング・フィッシャーを製造販売しているUnited Beverage Groupがオーナーだし、Paramount Airはマドゥライのテキスタイル企業がオーナーであるなど、異なる業種からの参入も目立ちます。価格競争も熾烈になっていて、Spice Jetなどはなんと、操業開始から99日間は9000席まで99ルピーというキャンペーンをやり、今も国内の主な線で往復999ルピーという超格安チケットを売っています。

これら新しく参入した会社がガンガンと海外に新しい飛行機の注文を出しており、これからパイロットや客室乗務員もどんどん採用が見込まれます。というか、パイロットはかなり不足しそうな事態らしいのです。

スチュワーデス養成学校の看板.jpg
そういう状況を反映する光景をコルカタで発見しました。これはスチュワーデス養成学校の看板。飛行機の前でにっこり微笑むスチュワーデス。航空会社間の競争を受けて、パイロットや客室業務員の給料も上がっているようで、スチュワーデスはいまや若いインド女性の憧れの職業です。

泊まったホテルの近所から行きつけのレストランへの道を歩いていたら、ありました、この学校。普通の住宅街の中のマンションのようなビルに看板がかかっています。残念ながらこの学校に出入りする人の姿を捉えることはできなかったのですが...
スチュワーデス養成学校.jpg

ちょうど私たちがコルカタに着いた翌日の29日、インドの英字紙Telegraphの1面に載っていた記事は、ハメを外して首相官邸に車で乗り込んだ若者3人が逮捕されたというニュースでした。3人のうち2人はエア・サハラのスチュワーデス。泣きそうな顔で「私たち、牢屋に入れられるんじゃないよね?ね?」と言ったという彼女たちは20代前半。彼女たちが乗っていた黒いかっこいい車は2人のうちの1人の持ち物でした。エア・サハラはすぐさま2人を解雇。うーん、アホな子たちやなあ。でも20代前半で車を乗り回せるような給料をもらっていたわけね。

豊かな人はどんどん豊かになる一方で、取り残された人との格差は開くばかり。一方では牛糞をこねて燃料をつくり、食べるものが無くてネズミを食べている人もいる国で、航空産業は熾烈な競争。

バングラデシュもそうだけど、インドも「国内の南北問題」が深刻ですね...。南北問題ってもはや国と国の間のものだけじゃないですよね。インドみたいな国では、都市で育った豊かな若者たちを対象にした「国内の開発教育」が必要なんじゃないでしょうか。そういうところで日本のNGOの国内での活動の経験が生かせるかもしれません。






投稿者: 藤岡 日 時: 02:55 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)

2006年08月02日

 ビーマン航空の新戦略

7月28日から31日までインドのコルカタに出張してきました。
ダッカからコルカタへは飛行機でわずか40分程度。一度飛んでしまえばあっという間です。ダッカとコルカタの間には30分の時差があるので、例えば8時にダッカを出た飛行機は8時10分にコルカタに着きます。
飛行機さえスムーズに飛べば、ちょちょいと行けるはずの距離なのです。

しかしながら、なかなか飛ばないのです、これが。

ダッカ -コルカタ間の航空便は、今のところインド国営のエア・インディアとバングラデシュ国営のビーマン・エアライン、バングラデシュの民間航空会社のGMGの3つです。GMGは非常に小さいプロペラ機なのでちょっと避けるとして、エア・インディアで行くか、ビーマンで行くか。できればエア・インディアにしたいのですが、これは毎日飛んでいないため、多くの場合ビーマンで行くことになります。

このビーマンが泣けてくるほどちゃんと飛んでくれないんです。
ダッカに赴任してから4回コルカタへ出張し、うち3回ビーマンを使いましたが、ほぼ時間通りに飛んだのは1度だけ。あとの2回は今回も含め、さんざんでした。
飛行機の数も少ないし、古い機体ばかりなので、そもそも現行のフライトスケジュールに無理があるんですよね。

今回は行きが5時間遅れ、帰りが3時間遅れました。たった40分の飛行のために、なんでこんなに空港で待たなきゃいけないのかと同行したプログラムオフィサーのサイフルと共にぼやくことしきり。こんな状況なので、ダッカからコルカタへ向かう日は、たとえ朝1番の飛行機であっても、午後にアポなど入れられません。2時間ぐらい遅れることはいつも覚悟しているのですが、3時間、5時間と遅れるとさすがにぐったりします。

今回の行きの飛行機は、最初時間通りにシートに座るところまで行ったのです。安全ベルトを締め、やれやれ今回は順調だと安心したところでアナウンス。「機体に不都合が生じたため、ロビーにお戻りください」。ああ、やっぱり今回もダメだったか。そして待つこと5時間。本や新聞を読むのにも飽き、私は空港の椅子で居眠りして落ちそうになり(朝一番の飛行機なので5時起きだったのです)、サイフルはひたすら隣のゲートに止まっている飛行機の窓の数を数える、という不毛な時間...。

しかし、今回発見したのは、どうやらビーマンが新しい戦略をとり始めたということです。それは、「とにかく待たされている乗客にまず食べさせる」ということです。飛行機が当分飛べないと決まったとたん(そもそもそれが決まること自体も遅いのですが)、「みなさーん、朝ごはんをおとりください」とか「ディナーをおとりください」とアナウンス。これは前にはなかったことです。以前はろくに食べさせてもくれなかったですから。

で、おかしいのは、乗客もいったん食事をするとあまりブーブー文句は言わないのです。お腹がすくと途端に怒りっぽくなるのは人間の自然な性癖。ですから、この「とにかく食べさせる」というビーマンの新戦略はなかなか的を得たものだと言えましょう。

5時間後、晴れて再び飛行機に乗り込み、ドアがしまった途端、機内からは乗客の拍手が。ああ、ビーマン。5時間遅れても飛べるというそれだけで拍手してくれる乗客のなんと温かいことか。

お隣のインドでは民間の航空会社が次々と参入し、スチュワーデスは若い女性の憧れの職業となりつつあります。この話を含め、次回以降数回にわたって写真入りインドシリーズをお送りします。




投稿者: 藤岡 日 時: 21:38 | | コメ ント (0) | トラッ クバック (0)
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